沖縄返還時期の明示迫る 1957年、岸首相が米国に


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 【東京】1957年6月に訪米した当時の岸信介首相がアイゼンハワー米大統領との会談で、「10年」の期限を区切って沖縄の施政権返還を求める意向だったことが、30日公開された外交文書で明らかになった。

岸氏が首脳会談で最大の懸案課題だった日米安保条約改定に加え、沖縄返還も交渉課題として打ち出す姿勢を示していたことがうかがえる。
 沖縄返還をめぐる日米交渉では、日本側が密約で費用の肩代わりを決めた米短波放送「ボイス・オブ・アメリカ(VOA)」中継局の移転費用を、69年の時点で2千万ドルと積算していたことが分かる文書も見つかった。
 岸氏は訪米先のワシントンで大統領、ダレス米国務長官と相次いで会談。会談に備えて同年4月1日付でまとめた「対米申入れ用メモ」には、沖縄返還について「日米両国の協力関係の進展を阻害している最も大きな要因の一つ」と指摘。その上で「領土問題を解決するための一案を提起したい」とし、「米国は日本国との平和条約(サンフランシスコ平和条約)3条に基くすべての権利及び利益を10年後に日本国のために放棄する」との方針が明記されていた。「10年」の部分は手書きで修正されており、修正前は「7年」と印字されていた。
 だが、実際の首脳会談では具体的な返還時期について言及されなかった。岸氏は首脳会談の発言録で米軍の沖縄駐留に「極東における安全保障のため必要」と理解を示しつつ、「故に施政権全部を委ねねばならぬというのは了解し難い。(米側の)施政権が無期限であるため、日本国民は不安を抱かざるを得ない」と述べ、期限を区切って沖縄返還をするよう暗に迫った。
 これに対し、アイゼンハワー氏は「侵略が起きた場合に迅速に行動し得る立場にあることが必要」と沖縄の戦略的重要性を説明し、返還が選択肢にないことを示唆した。
 外務省は、沖縄への自衛隊配備をめぐる日米交渉や在沖米軍の毒ガスを米領ジョンストン島に撤去させた「毒ガス移送」の記録など沖縄返還に関する25冊を含め計92冊を公開した。

<用語>外交文書公開
 外務省は1976年、作成後30年を経た外交文書の一部公開を始めたが、可否は担当部署の判断に委ねられており、多くが非開示となっていた。民主党政権は日米核密約の調査を契機に30年経過した文書を原則公開する制度を導入した。昨年末に政権復帰した自民党もその方針を踏襲している。公開手続きが済んだ文書は都内の外交史料館で閲覧が可能になる。
英文へ→Kishi pushed U.S. to set deadline for Okinawa’s return at 1957 summit

岸信介元首相
アイゼンハワー元米大統領(UPI=共同)