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<メディア時評・メディアと政治の関係>取り込まれる権力監視 政権と符合する沖縄報道


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 「言論の危機」の内実としては、表現の自由を脅かす法制度上の問題、ジャーナリズムの変節による公権力監視の弱体化、言論報道機関の商業的衰退という、制度・ジャーナリズム・経営の側面がある。そしていままさに、その三つのいずれもが重大な岐路に直面していると言わざるを得ない。このうち、特定秘密保護法に象徴される法制度上の問題は、昨年秋以降たびたび当欄で取り上げてきたので、ここでは二つ目の言論報道機関の姿勢について絞ってみていきたい。

逆手に取られる制度
 すでに一部の紙誌面で繰り返し報道されているように、NHKの新しい籾井勝人会長や百田尚樹・長谷川三千子両経営委員の発言が問題視されている。公的な立場と自身の思想信条や感情を切り分けることは、その職にふさわしいかどうかの重要な要素であろう。と同時に、彼らがNHKという法で定められた特別な地位にある〈公共〉放送をどう認識しているかは、直接的にジャーナリズムに関わる重大問題である。
 NHKは国営ではなく公共であるからこそ、視聴者たる国民との関係においてはじめて存在しうる。そしてその経営方針や放送内容については、視聴者に対して説明責任を負うことになっている。その果たし方の一つとして、視聴者の代表としての役割を担う経営委員会が、NHKの業務をチェックする権能を持つ。
 同様に国民の代表たる国会に、NHK予算の承認や受信料を決定する権限を持たせることで、経営方針の確認を行っている。ほかにも業務報告書や決算を国会提出しなくていけないし、経営委員会委員の任命権を総理大臣に与えているのも国会関与の工夫の一つだ。
 こうした法制度の上の仕組みによって、放送に行政が直接的規制をかけることを最小限に抑えようとしているわけだ。その結果、放送法に定められた「視聴者に対する約束」を、NHKがきちんと果たしているかを、私たちは知ることができるのである。さらに日本の場合、戦後すぐに出された編集権声明によって、番組の編集・編成権が経営者にあることになっており、放送内容の最高責任者は少なくとも形式上会長ということになる。
 だからこそ、その地位にある者が、政府の意向を忖度(そんたく)したかのような姿勢を示すことは、報道機関の長としてあってはならないことだ。あるいは、見守り隊のはずの経営委員が特定の選挙立候補者の政策を支持する行為は、個別の番組編集には触れてはいけないと定めている法規定に、直接違反はしなくても影響を与えうる可能性がある。
 さらに言えばNHK自身が、工夫の結果の仕組みを逆手にとって、予算の事前説明と称した議員回りを行っていた事実も、過去には明らかになった。まさに民主主義の発展に資するために作られた制度の趣旨を捻(ね)じ曲げ、ジャーナリズムの本旨に反する行為が、会長以下組織の内部から起こることに「危機」を感じざるをえない。

首相と経営陣の会食
 こうしたメディアと政治の関係の象徴的な事例が、首相と経営・編集幹部との会合の多さだ。
 安倍首相は政権発足から1年間で、延べ50人を超えるメディア関係者と、主として夜に高級レストランで会食を重ねている。最も頻繁に会っている読売から始まり、産経がそれに続き、以下は朝日、毎日、中日、日経、共同、時事などが並ぶ。テレビ局も新聞系列に符丁を合わせ、フジテレビと日本テレビが回数としては多い。しかし多少の凹凸はあっても、総じて満遍なく各社の経営陣が会っていることがわかる。
 また、論説・解説委員や政治部長クラスとの会合も存在する(専修大学山田研究室の調査による。詳細は『エディターシップ』3号で公表予定)。
 こうした首相と経営陣の会合は、過去にも政権によっては行われてきたことだ。多少性格は異なるものの、行政の各種会合体に新聞社の編集委員クラスが構成員として参加することも、古くて新しい問題だ。より良き政策の実現のために、見識がいかされるという見方もあれば、結局は取り込まれているだけとの厳しい批判もある。実際、積極的に参加する社と、委員派遣は一切しない社に分かれている現実が存在する。それに比べると、首相と経営・編集幹部との会合は、実際に会食でどういう話がされたかは別として、一般読者・視聴者からみて関係性が疑われる可能性があることは否定しえない。
 例えば、渡辺恒雄読売新聞グループ会長は秘密保護法が参議院で強行採決される前後に和食をともにし、その後、同氏は法制定に関連して設置された「第3者的機関」の一つである情報保全諮問会議の座長に就任した。百田経営委員も首相と会った後、委員に任命されている。
 記者が政治家に会って酒を酌み交わすことがあるように、首相と社長が会って何が問題かという声もある。こうしたことが直接、紙誌面や番組に影響があるとは思えない、食事代は折半しているし、わざわざ首相から会おうというのをむげに断るのは大人げない-とも言われている。
 しかし、なぜこれだけ頻繁にメディア関係者が首相と、内容が表に出ない接触を重ねる必要があるのかの道義的説明責任は、メディアの側にあるといえる。これらに比して、沖縄メディアは官房長官と社長との懇談を、オープンで行い記事化していることを、単に青臭いとして切り捨てることはできないはずだ。
 むしろ、沖縄県知事の辺野古埋め立て承認会見の翌日、在京紙は県庁内での抗議行動を、革マル派等の運動家が県職員の規制を振り切って雪崩込み、ロビーを占領したと報じるなどした。沖縄において「良識的な市民」は辺野古移設を望んでいて、「一部の過激派」が反対活動を行っているのであって、それを地元紙が煽(あお)っているという構図が作られようとしているわけだ。同様なことは、原発再稼働問題でも起きているといえるだろう。
 結果としてみられる、こうした政権との符合は、時に「争点隠し」としても表れ、それは健全なジャーナリズムとはかけ離れたものになる危険性がある。そして、そうした声が大きくならないこと自体が、まさにジャーナリズムの危機であるといえる。
(山田健太 専修大学教授・言論法)