10・10空襲で沈没「迅鯨」 乗員手記 名護市史に


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社
武田不二男さんから預かった手記の内容を名護博物館の山本英康学芸員(右)に説明する中村英雄さん=27日、名護博物館

 【名護】1944年の10・10空襲で本部町の本部港に停泊中、米軍の攻撃で沈没した海軍の潜水母艦「迅鯨」の乗員だった武田不二男さん(86)=東京都=から、当時の様子などをつづった手記が本部町の中村英雄さん(85)にこのほど届いた。

中村さんをはじめ、住民が迅鯨の乗員救助に当たったのが縁で、中村さんは「戦を二度としないためにも体験を伝えてほしい」と名護市教育委員会に手記を寄贈した。現在編さん中の名護市史本編3「戦争編」の資料として活用される。
 武田さんは手記で、救助後、「陸軍名護野戦病院」に保護され、44年11月30日に那覇港を出航した貨客船「日輪丸」で鹿児島へ向かうまでの様子をつづっている。
 その間、仮設ベッドで治療薬もなく苦しい思いをしたことや蚊に悩まされた経験、住民に分けてもらった食糧への感謝を書いている。
 「陸軍名護野戦病院」は「元は仮設の小学校で高台」にあり、周囲は「桜と松の木が多い」と記されているが、名護市内で該当する場所は不明だ。
 手記では県立第三高等女学校の女子学生から食糧を分けてもらったという記述もあり、本部町八重岳にあった野戦病院の可能性もある。
 中村さんは重油と血で海が真っ黒になった70年前の出来事を振り返りつつ「戦の悲惨さは身に染みて知っている」と言う。憲法改正や集団的自衛権行使などが議論される現状に対し「今の政治家は戦をしたがっているようだが、二度と戦争はあってはならない。そのことを伝えたい」と強調した。
 名護市史「戦争編」は市内だけでなく、北部全域の沖縄戦を記録する計画だ。