対馬丸救助の手記を記念館に寄贈


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 1944年8月22日、米軍の攻撃で沈没した学童疎開船「対馬丸」付近に翌23日駆け付け、遭難者を救助した高知県の元漁師で当時16歳だった杉本寛(ゆたか)さん(享年66)の妻佐賀子さん(80)=高知市=が11日、那覇市の対馬丸記念館を訪れ、寛さんが救助の様子を記した手記を寄贈した。

生存者で記念会理事長を務める高良政勝さん(74)に手記を手渡した佐賀子さんは「主人も戦争のない平和な国に、と願っておるんじゃないかと思います。若い方にお伝えください」と話した。手記は同館に展示される。
 寛さんは生前、救助の様子を佐賀子さんに話していたが、手記は94年8月に寛さんが亡くなった後に見つかった。達筆な字で50~60人を救助した様子などがA4の紙3枚に記されている。
 手記の存在を知り「鳥肌が立った」という高良さんは贈呈式で言葉を詰まらせ、しばらく絶句した。生存者の照屋恒(ひさし)さん(74)、糸数裕子さん(89)らも駆け付けた。引率教員だった糸数さんは「もう少し早く分かれば。(杉本さんに)心底会いたかった。大波に揺れてちょっとでも手を離すと流されてしまうあの状況を思い浮かべると、感謝の気持ちでいっぱいだ」と話した。
 終戦前、寛さんの父は足摺岬で米軍の艦載機攻撃により亡くなったという。
 佐賀子さんと娘の森安幸代さん(55)、孫の智子さん(28)は犠牲者名を刻む小桜の塔も訪れた。手を合わせて涙ぐみ、深々とおじぎした。幼稚園教諭の智子さんは「子どもたちに命は大事だよと伝えるとき、祖父母のことを話したい」と語った。
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杉本さん手記(抜粋、原文まま)
 「早速操業を打ち切り―中略―二隻が全速力で遭難現場に向いました」「通信長(奥田一雄君)と小生ははだかになりまずロープを腰にくくり海中にとび込み遭難者に接近/ロープをいかだにむすびつけ再三くり返しながら五、六十人救助したのでわないかと思います」「遭難以来約十五時間近くもおよいでいる者/転覆している救命ボートの上で幾人か助けを求めている者/又救命胴衣着用したまゝボートの下敷きになり浮上する事が出来ず死亡している方が多さんいました」「救助者全員の氏名すら一人としてわからぬまゝ別れました/今その方達はどこでどうして生きているものか知りたいものです」

杉本寛さんが対馬丸救助の様子を記した手記
対馬丸の犠牲者を祭る小桜の塔を参拝した杉本佐賀子さん=11日、那覇市の小桜の塔