「父の遺骨かも」 沖縄戦死亡の遺児3人、豊見城の発見現場訪問


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旧日本軍兵士とみられる遺骨に線香や飲み物を手向け、手を合わせる當銘盛重さん(左)。沖縄戦で亡くなった父の遺骨を捜している=13日、豊見城市

 遺骨収集ボランティア団体ガマフヤー(具志堅隆松代表)が4月末に沖縄戦時に豊見城城址に掘られた第24師団第2野戦病院壕付近の岩場で、旧日本軍兵士とみられる遺骨を発見した。防衛隊として召集され、この壕の付近で消息を絶ったとされる父・當銘盛徳さん(享年27)の遺骨を捜すため13日、長男の當銘盛重さん(72)、次男の保勝さん(69)、長女の仲村千代子さん(77)が現場を訪れた。

 きょうだいは、遺骨の発見を報じた12日の本紙記事を読み、「父の遺骨かもしれない」と具志堅代表に連絡した。
 戦後長い間地中に埋まっていた遺骨に、きょうだいは線香を手向け、手を合わせた。盛重さんは「父である可能性は低いかもしれないが、チャンスがあればDNA鑑定も受けたい」と願った。
 盛重さんらきょうだいは戦後、父親と共に防衛隊として召集された伯父や母から、父の最期について聞いていた。伯父によると、1945年5月初旬に南風原で肩に大けがを負った父を、伯父が第2野戦病院壕まで運んだ。
 伯父は旧豊見城村翁長の自宅に戻り、壕に戻ったが、すでに父の姿はなかった。伯父が病院関係者に父の行方を聞くと「埋葬した」と言われたという。
 沖縄戦当時、翁長の防空壕に隠れていた千代子さんは、野戦病院壕から戻ってきた伯父が「弟を連れて帰れなかった」と話し、防空壕の入り口でぼうぜんと立ち尽くしていた姿や、泣き崩れた母の姿を覚えている。千代子さんは「ああ、こうやって父は葬られたんだね」とつぶやき、当時に思いをはせた。
 具志堅代表は「壕付近にはまだ多くの遺骨が埋まっている可能性が高い。行政も遺骨の捜索に協力してほしい。遺族は小さな骨一つでも返ってきてほしいと望んでいる」と訴えた。
(赤嶺玲子)