沖縄戦の激戦地跡 開発で取り壊し 前田高地後方陣地


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 【浦添】沖縄戦の激戦地である浦添市の前田高地の戦闘をめぐる戦跡(前田高地後方陣地跡)が、市の区画整理事業に伴う工事で取り壊され始めている。日本軍の歩兵大隊が潜み、米軍戦車から直撃砲を浴びたという文献記録を裏付ける痕跡を残した墓群で、遺骨収集ボランティア団体ガマフヤー代表の具志堅隆松さんは「文献と現場が一致する貴重な戦跡だ。戦跡公園などの形で保全を検討できないか」と求めている。

 戦争体験者が高齢化し、69年前の戦争を継承する上で戦争遺跡の整備・保存が重要性を増しながら、開発で沖縄戦現場の消失も進む現状が浮き彫りになった。
 現場は前田高地の南側の裾に位置する約1900平方メートルの丘陵地で、区画整理事業が進む浦添南第一地区に含まれている。
 市文化課によると、丘陵には斜面を掘り込んで造った墓(フィンチャー墓)31基が存在する。通路を掘って墓同士をつないだ加工跡があることから戦時中に壕として利用していたことが確認できるほか、内部の土壁に着弾痕の大きな穴が開き、破裂して飛び散った砲弾の破片が天井や壁に突き刺さった墓があった。
 首里に置かれた第32軍司令部を守る防衛線だった前田高地では日米両軍が死闘を繰り広げた。第32軍歩兵第32連隊第2大隊の大隊長だった志村常雄氏らが戦後に残した手記や回想では、1945年4月28日、前田高地後方の陣地壕に待機中、米軍の戦車が現れて墓穴に一発一発砲弾を浴びせてきたと記述する。直撃弾で内部の兵士全員が死亡した墓穴もあったという。
 具志堅さんは昨年末、沖縄戦研究家の水ノ江拓治さんと丘陵に残る着弾痕を調べ、掘り出した残骸やめり込んだ角度から、砲弾は戦車から射撃された75ミリりゅう弾砲と特定。戦跡の状況と手記の記述が一致した。
 しかし、5月から道路・宅地整備に向けた整地工事が始まり、着弾痕を残した墓群の一部が既に取り壊された。浦添市は「文化財調査による記録保存も終えている。丘陵を整地しなければ周辺整備の工程に支障が出る」と理解を求める。
 具志堅さんは「沖縄戦の検証は今もまだ十分ではなく、戦争の生々しい状況が分かる場所を保存することは大きな意味がある」と訴えた。(与那嶺松一郎)

戦時中に壕として使用された墓群が取り壊される直前に、着弾痕の確認に訪れた具志堅隆松さん=5月21日、浦添市前田
墓穴の取り壊し前に掘り出した、土壁に残っていた砲弾の残骸(下)。上は同サイズの75ミリ弾