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<メディア時評・日本型表現の自由>「蟻の一穴」の危険性 異論認めない制度と空気


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 いま東京・上野の森ではバルテュス展が開催中で、多くの観客を集めている。そのちょうど同じ時期、国会では改正子どもポルノ禁止法案が審議され、来週にも成立の見込みと伝えられている。巨匠と呼ばれた同氏は少女画が有名で、描いたワインラベルが子どもポルノとして騒動になったことがあるだけに、そのめぐりあわせは不思議なものだ。

規制対象を、実写から漫画・アニメといった創造物に拡張する変更点は最終的に外され、「単純所持」を罰することが目玉の改正となる。しかしながら、いわゆる漫画規制は「一歩前進」をめざしていったん取り下げただけともいえ、実際、同様の規定を持つ東京都青少年条例では、法案審議に合わせるかのように、今国会中に大手出版社角川書店のコミックスを「不健全(有害)図書」と初指定している。いつでも、また再強化の話が出る素地(そじ)があるということだ。
 単純所持禁止は、世の中から子どもポルノの存在をなくすことを求めるもので、これまでのように流通・販売目的で持っている場合に限らず、親が子の写真を撮った場合や、セルフヌードや未成年夫婦間で撮影した水着動画も、場合によっては摘発の対象となる。あるいは、国会審議でも問題になったように、高校生の下着風の水着写真集が問題とされるわけである。ことほどさように、子どもポルノの定義は芸術作品も含めて、極めて曖昧なものであることを、あらためて確認しておく必要があるだろう。なぜなら、この曖昧さこそが恣意(しい)的な取り締まりを可能にしているからである。しかも今後は、それらを販売目的ではなく、買った側も罰するということにしたわけで、これは出版する側にも、そして一般市民の側にも大きな萎縮効果をもたらすことになる。

単純所持も禁止

 こうした曖昧さ以上に、国会では全く議論された形跡がないものの、より大きな懸念が、単純所持禁止が日本の表現の自由モデル原則を変えてしまう点だ。この「表現物を持っているだけで罰する」という法規制は、特定の表現行為を社会の中で一切認めないということを意味する。これで、確かにいまより捕まえやすくはなるだろう(ちなみに、現行法でも厳しい摘発は十分に可能である)。しかし、子どもポルノが「蟻(あり)の一穴」となって、「例外」が増えていくことを強く懸念せざるをえない。
 たとえば、いま問題になっているヘイトスピーチも、社会的に存在させるべきではないという考えから絶対的な法による禁止を求める声が強い。社会全体として秩序維持のために公権力による規制を求める空気が広まっているだけに、結果として表現の自由が劣後におかれる可能性が高まっているからである。確かに、反基地デモに罵詈雑言(ばりぞうごん)を浴びせる者を取り締まりたい欲求はあるだろう。しかしいったん法ができれば、仮に「ヤマトゥンチューは出ていけ」と口を滑らせた瞬間、公権力に反基地運動を取り締まる法的根拠を与えることになりかねないことを覚えておく必要がある。
 これまで、箍(たが)を外してこなかったのは、戦前戦中の警察による恣意的な取り締まりに、「例外」が活用された苦い経験があるからだ。欧州諸国のように、一部の表現行為の存在を認めないという選択肢はもちろんありうるが、形式的な「国際基準」にそろえることで、日本の表現の自由の基本構造を変えてしまいかねないことは、もっと議論されなければならない。
 表現の自由をめぐるもう一つの問題が、相変わらず続く政府からの物言いである。『ビックコミック・スピリッツ』連載の「美味(おい)しんぼ」をめぐる騒動のさなか、政府閣僚等はこぞって「事実に反する」として遺憾表明や批判を行った。新聞報道されただけでも、安倍首相(17日)「根拠ない風評に国として対応」、菅官房長官(12日)「正確な知識を」、根元復興相(13日)「非常に残念で遺憾」、森消費者相(13日)「根拠ない差別を助長」、石原環境相(9日)「被曝と鼻血に因果関係ない」、太田国土交通相(13日)「心情をよく理解する必要ある」、下村文科相(12日)「よく勉強して描く必要ある」、環境省政務官(8日)「とても残念で悲しい」と続いたことがわかる。このほか、自民党福島県連や福島県議会民主・県民連合が抗議している(ほかに、大阪府、大阪市や福島県、双葉町の抗議がある)。

必要な説明責任

 しかも気になるのは、会見記録を見る限り、記者の側から「言わせている」節が強いことだ。さらには、こうした政治家発言を受ける形で、各社が社説等で論陣を張るが、むしろその多くは漫画表現を否定し、議論を認めないという状況を認めている。具体的には、「これは『表現の自由』の問題ではない」(13日、産経)、「復興に使うべき貴重な時間と労力を抗議や反論のために浪費させて何が議論か」(14日、福島民報)などの全否定や、「一つの作品を取り上げて過剰に反応したり、大学の学長が教職員の言動を制限するような発言をしたりすることには、賛成できない」(14日、朝日)といった冷静な議論を求めるものが多数派であった。「自由に議論すること自体をためらう風潮が起きることを懸念する」(15日、毎日)は少数派であったといえるだろう。
 間違ったことをしたら抗議するのが当然、と一般に言われているが、政府が公式の場でこれだけの批判を集中させることは、極めて珍しいことだ。本来、政府は一方的に抗議するのではなく、あくまでも説明責任を果たす役割を負っているのであって、もし風評被害が起こる可能性があると思えば、より詳細で十分なデータを明らかにすることが求められているのではないか。むしろその不足こそが、いま問われていることそのものでもある。
 当欄前月でも触れたように、原発や沖縄問題に関する神経質なまでの政府の対応は、こうしたところにも表れるのであって、それは表現の自由を覆う重たい雲となって私たちを覆いつつある。
(山田健太、専修大学教授・言論法)