証言集め 念願の礎刻銘


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 平和の礎にことし刻銘された古謝英夫さんと仲村貞雄さんは戦前・戦後の混乱で戸籍上に問題が生じたため、礎に刻まれていなかった。遺族は故人の「生きた証し」を残すため、証言や公的な書類、位牌(いはい)の写真といった、2人が生存した証拠をかき集めた。

ようやく刻銘を果たした遺族は「やっと供養ができる」と語り、安堵(あんど)の表情でことしの慰霊の日を迎える。

◆「行方不明」の伯父/2年がかり死亡届受理/仲村重信さん
 【東京】沖縄戦で死亡したにもかかわらず戸籍が抹消されないままだった仲村貞雄さん(享年16)。貞雄さんのおいの仲村重信さん(39)=東京都在住=が2年かけて正式に死亡届を出し、沖縄戦の犠牲者として刻銘を果たした。重信さんは「沖縄では戦後の混乱で処理できていない問題が多いと思う。それを整理し、解決するのは僕らの世代の責任だ」と話した。
 本部町備瀬に生まれた貞雄さんは米軍が上陸した1945年4月に死亡した。親戚などの証言では、家の壕から外に出た際、米兵に見つかって銃殺されたという。その後に家族が葬り、位牌(いはい)には貞雄さんの名が記されている。
 しかし戦後の混乱で、戸籍が二重になった上に家族関係が誤って記載されていた。家族が死亡届を提出できる親族と認められず、貞雄さんは戸籍上「行方不明」となっていた。
 重信さんは伯父の死亡を立証するために親族の証言や書類を集め、帰省のたびに法務局や役所に足を運んだ。亡くなってから68年後の昨年9月、死亡届が受理された。重信さんは「ようやく供養ができたのではないか。伯父の生きた証として、慰霊の日に親族皆で礎を訪れたい」と話した。

◆1歳で死去の弟/父の手帳に生きた証し/古謝昇さん
 ことし新たに名前が刻まれた古謝英夫さん。1歳5ヵ月で亡くなった昇さん(74)の弟だ。
 1944年夏、昇さんは母と兄弟4人で熊本県に疎開した。英夫さんはその年の3月に生まれたばかりだった。「当時私も4、5歳で弟との思い出はほとんどなく、親に抱かれている姿しか覚えていない。ただ、常に顔色が悪かった記憶がある」と振り返る。沖縄戦は体験しなかったが、食料がない苦しみは熊本でも一緒だった。
 「食べるものがなくて、(母から)母乳も出なくなったのではないか」。結局、英夫さんはそのまま熊本の地で、栄養失調で1歳5カ月の命を終えた。8月19日。終戦を伝える「玉音放送」が流れた4日後だった。
 当時、那覇警察署員として業務で訪れた熊本で病死した父や、師範学校の生徒で鉄血勤皇隊員として摩文仁で戦死した兄、44年の10・10空襲後の混乱期に病死した祖母の名前は刻銘された。
 だが出生届が出されていなかった英夫さんの名前が刻まれることはなかった。古謝さんは戸籍上での存在がなかったため、刻銘を諦めていたという。しかし数年前、証言と物的証拠があれば刻銘できることを知った。兄弟の証言や位牌(いはい)の写真で弟の存在を証明し、刻銘を果たした。「証拠になれば」と、英夫さんの誕生日が記載された父の遺品の手帳も持参して、県の窓口に臨んだ。
 「これで弟の生きていた証しを残すことができる。子や孫にもつないでいける」と胸をなで下ろす。「やっと供養ができるよ」。弟と久々の“再会”を果たすため、23日には平和の礎に向かう。

仲村 重信さん
古謝 昇さん