亡き友の思い胸に 「県立農林学校隊最期の碑」建立


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「最期の碑」の除幕式で、参列者に学徒の歩みを説明する名桜大学前学長の瀬名波栄喜さん=22日午後、東村宮城

 沖縄戦で鉄血勤皇隊が編成された県立農林学校(嘉手納町、戦火で焼失・廃校)の生徒だった名桜大学前学長、瀬名波栄喜さん(85)と元学徒の遺族らが22日、隊長・学徒計11人が戦死した東村の山中に「県立農林学校隊最期の碑」を建立し、除幕式を行った。

瀬名波さんの同級生で、3年前に亡くなった元学徒、大城仁光さんが生前に碑の建立を切望していた。
 瀬名波さんは「戦後69年を迎える中、隊長や仲間の死を悼む大城さんの悲願をようやく果たせた。私も彼らの鎮魂と、世界の平和を祈りたい」と話した。
 瀬名波さんは1944年4月に農林学校に入学、6月ごろから中飛行場(現嘉手納飛行場)の滑走路造りなどに動員された。45年3月中旬、「鉄血勤皇隊をつくるので、親と最後の面会をしてくるように」と指示が出た。瀬名波さんは久志村(現名護市)の自宅に帰ったが、空襲のため学校に戻れなくなった。
 農林学校では約170人の生徒で鉄血勤皇隊農林隊を編成。うち20人を肉迫攻撃隊に選び、配属将校だった尚謙少尉を隊長とした。
 攻撃隊は本部半島まで転戦した。大城さんを含む約150人の農林隊の本隊は、金武まで移動した後、食料不足で解散した。
 本隊解散後、大城さんは攻撃隊に合流。攻撃隊は米軍の猛攻を受けて撤退し、東村内福地(現在は福地ダムで水没)で4月28日、激しい銃撃戦になった。
 瀬名波さんによると、銃撃戦で尚隊長ら11人が死亡。隊長を失い、攻撃隊は消滅した。大城さんは生き延び避難したが、別の将校から遺骨を取って来るよう命じられ、尚隊長の鎖骨を切り取り、将校に託した。
 建立は同窓会が一時検討したが、現場が水没していたため断念。同窓会は2009年に高齢化のため解散。その後、大城さんの長女、東江京子さん(58)=伊是名村=らが奔走し、内福地に近い東村宮城での建立が実現した。(安田衛)