きょうだいの死 自責の念 礎向かい「ありがとう」


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手を合わせて静かに話し掛ける玉寄末子さん=23日、糸満市

 戦後69年たった慰霊の日、玉寄末子さん(69)=豊見城市=は、糸満市にある平和の礎に刻まれた兄長嶺秀雄さんと姉静子さんの名前をじっと見詰めていた。

米軍が沖縄本島に上陸する直前の3月29日、糸満市武富で生まれた玉寄さんは「自分が赤子だったために兄と姉が命を落とした。申し訳ない」と語った。
 「公園内に入ると、涙が出て止まらなくなる」。玉寄さんの母は、生まれて数カ月もたたない玉寄さんを抱いて南へ壕を転々としながら逃げ惑った。兄と姉は避難中に艦砲射撃や爆撃で命を落とした。「幼かった兄も姉も母に手を引かれながら避難していれば助かったかもしれない」と涙を浮かべる。
 壕内で隠れている時に乳児だった玉寄さんが泣くと、母は日本兵から「黙らせろ」と言われたという。口に布を詰めると少しずつ静かになる玉寄さんを抱き、急いで壕の外に走りだした。呼吸を取り戻すまで壕の外で待ち、壕内に出たり入ったりを繰り返した。
 玉寄さんは長い間、自分を責めながら生きてきた。少しでも人の役に立つことが克服につながると考え、ボランティア活動に励んでいる。今後、後の世代に戦争の悲惨さを伝える取り組みも始めたいと考えている。
 「健康でいろいろな活動に取り組めるのは兄と姉が見守ってくれているおかげだと思う」と話し、平和の礎に向かって静かに「ありがとう」と手を合わせた。