生存者ら思い複雑 両陛下きょう対馬丸記念館訪問


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 天皇皇后両陛下が27日、対馬丸の学童慰霊塔「小桜の塔」と対馬丸記念館を訪れ、遺族・生存者15人と懇談する。昭和天皇の戦争責任から複雑な感情を抱える遺族・生存者たち。「今の天皇に責任はない。迎え入れたい」という生存者の一方で、「亡くなった子どものことを考えると会えない」と参加を見送る生存者もいる。

対馬丸以外の戦時遭難船舶生存者は「沈んだのは対馬丸だけではない」と慰霊塔「海鳴りの像」への訪問を求めている。
 那覇国民学校高等科の引率教師だった糸数裕子(みつこ)さん(89)は出席を見送ることにした。「遺族が行くべきで、私が行くべきではない」との思いからだ。
 教師になったばかりの1944年。「子どもたちを守りたい、子どもたちにいろんなものを見せたい」。そんな一心で児童に疎開を熱心に進めた。「自分のクラスは1人も助からなかったのよ」。教え子たちを危険な海に連れて行ってしまったという自責の念は消えず、遺族に会うのを今もためらっている。
 天皇陛下が訪問されること自体には反対ではない。「遺族は高齢化している。もう少し早く来てくれればよかった」と思っている。
 国民学校4年生で対馬丸に乗船し、命を取り留めた平良啓子さん(79)は、海で亡くなった子どもたちの顔が今でも目に浮かぶ。「皇民化教育で洗脳され、国のために死んでいった。疎開も子どものためと言いながら、本当は口減らしだった。危険な海に行かされた子どもたちは沈められた」と参加を断る理由を語った。
 「慰霊のためにお見えになる。お迎えするのが礼儀ではないか」と話す、生存者の一人・上原清さん(80)。「沖縄戦の体験からは昭和天皇の戦争責任を問う声は理解できる。しかし、今の天皇陛下は当時小学生だ。何も分からなかった」と「戦争責任」とは切り離して考えている。「対馬丸が発見されたときに、陛下が詠んだ歌は私の気持ちと重なるものがあった」と親近感を抱く。
 対馬丸以外にも沖縄関係船舶は25隻が撃沈されている。嘉義丸(43年5月26日沈没)の生存者、仲本康子さん(73)は当時2歳半。記憶はないが、今でも海を見るのは怖い。「ほかの船にも子どもたちが乗っていた。海鳴りの像にも足を運んでもらえたら」と望んだ。(玉城江梨子)

「遺族のことを思うと出席できない」と話す糸数裕子さん=26日、那覇市
「お迎えするのが礼儀」と話す上原清さん=26日、うるま市