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<メディア時評・デモ・集会の自由>民主主義の根幹支える 許容が社会の成熟示す


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 いま、あらためて「デモの自由」が問われている。自民党は8月28日、政調会のもとに設置したヘイトスピーチと呼ばれる人種差別的な街宣活動への対策を検討するプロジェクトチーム(座長=平沢勝栄)の初会合を開催、国会周辺での大音量の街宣やデモに対する規制も合わせて議論する方針を確認したとされる。

同会合で高市早苗政調会長(当時)は、「(大音量のデモによって)仕事にならない状況にある。仕事ができる環境を確保しなければならない。批判を恐れず、議論を進める」と発言したと伝えられており、当人は9月の内閣改造で、表現活動と密接な関係を有する総務大臣に就任した。
 また他の議員からは、「左右を問わず、騒音を規制すべきだ」との意見が出された模様だ。国会周辺のデモと言えば、東日本大震災以降続いている、脱原発やその後の特定秘密保護法、集団的自衛権に関する抗議活動が想起され、これらを封じ込める意図が容易に感じられる。一方で沖縄においても、辺野古新基地建設に伴う「海上」デモにおいて、海上保安庁による参加者の身柄の拘束が相次いでおり、逮捕も辞さない方針が示されているという。
 ではいったい、日本において政治的意見表明の手段としての示威行動である〈デモ〉は、なぜ許されないのか。

原始的な表現の大切さ

 デモ行進や集会といった示威行動や、ビラ・チラシや立て看板といった表現行為は、従来、原始的(プリミティブ)な表現行為と呼ばれてきた。その意味するところは、媒体を持たない一般市民が最も身近な表現手段で、不特定多数に対し、自らの意思を表明する手段であったからだ。一方で為政者は、こうした大衆行動を畏怖(いふ)し、その影響をいかに押しとどめるかに力を注いできたともいえるだろう。
 戦後の日本でも、さまざまな理由をつけてこうした言動を制限してきた歴史がある。その根拠は主に五つで、美観の維持、スムーズな交通往来の確保、騒音の防止のほか、社会秩序の維持、買売春の禁止である。これら法益を守るため、刑法、軽犯罪法、屋外広告物法、屋外広告物条例、道路交通法、公安条例、暴騒音規制条例、環境条例、暴力団排除条例、売買春禁止法、風営法、子どもポルノ禁止法、出会い系サイト規制法、迷惑メール対策法、破壊活動防止法、成田空港緊急措置法といった多くの法令を駆使して、表現行為の制限を行ってきたといえる。
 さらにより直接的に集会やデモを規制するものとして、国会・官邸や大使館の周辺での拡声器を使った抗議活動を禁止するための「国会議事堂等周辺地域及び外国公館等周辺地域の静穏の保持に関する法律」がある。これによって、請願デモのようにいわゆる「静かなデモ(集団行進)」は認められても、旗を持ったりマイクを使ってのシュプレヒコールを上げるような喧噪(けんそう)的な要素を含む「騒々しいデモ(集団示威行進)」は一切認められないことになる(現在、官邸前で行われている抗議行動は、デモではないという位置づけでなされている)。
 こうした規制に対し、制定直後から憲法の表現の自由に抵触するとして違憲訴訟が起こされてきたが、裁判所は一貫して規制を合憲と判断してきた。ただし、戦後すぐの「公共の福祉」を理由とした一般的包括的な規制はその後、比較衡量論といわれる、規制する場合としなかった場合の法益を個別具体的に比較して、どちらが優先するかは判断するという方法に変わってきた経緯がある。もちろんそれでも、団地やマンションの郵便受けに、政治的ビラ(政党機関紙など)を投げ込む行為に対し、住民の平穏が侵害されたとして有罪判決を受ける現実がある。

パブリックフォーラム

 ここであらためて確認しておかなければならないことがある。その一つは、一般市民が最も安価、簡便な方法で自己の主張を表現する方法として、デモや集会は「自由」であって、しかもそれは「権利」として認められているということだ。世界の憲法ともいえる国連自由権規約の21条は「平和的な集会の権利は認められる」とし、「他の者の権利及(およ)び自由の保護のための民主的社会において必要なもの以外のいかなる制限も課すことができない」と定めている。だからこそ、もし規制する場合は、過度の広範な規制の危険性がある一律禁止になっていないか、事前規制に該当しないか、取り締まりは必要にして最小限度かといった、表現規制の厳格性・明確性の観点での吟味が必要となる。
 それゆえ、陸海を問わず示威行為を制限する場合には、取り締まり基準の定義、対象、根拠などの明確性とともに、法手続きは十分か、救済措置はとられているか、が厳しく問われることになる。それは、えてして広範な取り締まりを期待しがちであって、また恣意(しい)的な取り締まりによって公権力の介入を生みやすい表現類型だからだ。
 もう一つの重要な点が、こうした示威行為を、政府を含め社会全体で許容することが、民主主義社会の成熟を示すものであるという点だ。確かに、デモや集会、ビラの配布が、道路の往来や町の美観に全く影響がないということはあり得ない。しかし、公的な公園や道路あるいは海上は、いわば「公共の表現の場(パブリック・フォーラム)」として確保されることが、社会の意見交流の機会を確保するためには必要であるという考え方だ。最高裁判決でも何度か登場している考え方で、延長線上には公民館や図書館・博物館といった公的施設における表現発表の活動も当てはまる。これは、駅前でビラを配布したり、電柱に立て看板を貼る行為にも拡張され、所有者の経済的利益の一時的部分的侵害や美観よりも、市民の利用に供する公共的利益が重視されてしかるべきケースといえる。できる限り表現の自由について許容幅を広げて比較衡量することが、意見発表の場としての言論公共空間を維持すること、すなわち市民のための市民による市民の表現行為の場の確保につながるからだ。
 こうした民主主義の根幹を支える自由を安易に取り締まりの対象とすることが、自らの社会を窒息させるということを、為政者は十分に理解し行動する必要がある。
(山田健太、専修大学教授・言論法)