父の形見、戦禍免れ 渡嘉敷の新里さん、懐石膳と三線 初披露


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戦禍を免れた、父の形見である膳と三線=14日、渡嘉敷村の新里武光さん宅

 【渡嘉敷】那覇市を中心に周辺の離島を含む県内全域が米軍の無差別攻撃を受けた1944年の「10・10空襲」から70年。渡嘉敷村の新里武光さん(78)は戦禍を免れ、父の形見として長年保管し続けている沖縄産の懐石膳と三線を14日、初めて披露した。

 来年、戦後70年を迎えるにあたり、平和の大切さを後世に伝えていきたいと、公開した。膳は、武光さんの父故武治さんが戦前、渡嘉敷村のカツオ船「嘉豊丸」(27トン)の船長として活躍したころ、1936年に同船組合から優秀船長として10個贈られたもの。ヤラブ(テリハボク)で作られ、沖縄独特の漆塗り。当時、島では大変貴重なもので、区行事、各家庭の大きな祝い事には貸し出されたという。
 三線は100年余前に作られた真壁三線(女三線)と呼ばれるもので、義兄から父に形見として贈られたもの。
 1904年、慶良間は県で初めてカツオ漁業に取り組んだ。その後、かつお節加工生産で、渡嘉敷、座間味両村は大きく発展した。沖縄戦当時、渡嘉敷村でも4隻のカツオ船が操業していたが「10・10空襲」で3隻が沈没した。
 武光さんの父武治さんは船員24人と島の阿波連ウラ海岸でカツオのエサを捕獲中に空襲を受け、1人が死亡した。23人は泳いで岸に渡り九死に一生を得た。その膳は父が船長としての思い出の品という。
 45年3月23日、米軍の攻撃を避けるために集落西の山裾に壕を掘り、家族で避難した。そのとき、家財道具、膳、三線も保管した。戦火が激しくなり、日本軍の守備隊から「集団自決」(強制集団死)を強いられた。だが、運よく生き延び、日本軍が米軍に降伏後、避難壕に保管した膳、三線を確認した。
 武光さんは「お膳、三線は新里家の宝物として子孫代々に受け継ぎ、残こしていきたい」と亡き父への思いを語った。
(米田英明通信員)