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<メディア時評・言論の自由を妨げるもの>「秘密法」に危機感を 恣意的な情報制約可能に


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 「出版又は報道の業務に従事する者の取材行為については、専ら公益を図る目的を有し、かつ、法令違反又は著しく不当な方法によるものと認められない限りは、これを正当な業務による行為とするものとする」

 ―これは今週10日に施行された特定秘密保護法の条文で、表現の自由への「配慮条項」と呼ばれている。確かに肯定文で、一見、正当な業務を定めたことで取材の自由を守っているように見えるかもしれない。しかし実のところは「不当な方法で行った取材は捕まえることができる」と読むのが正解だ。そして何が不当かを判断するのは政府だ。

一罰百戒

 もちろん最終的には司法の場で争われることになるが、この種の「治安立法」は捕まえることが目的で、裁判で有罪にすることが目的でない場合が少なくない。表現者を一時的に拘束することで、発表の機会を奪い表現の自由を制約することと、そうした一罰百戒的な雰囲気を世の中に知らしめ、「萎縮」効果を生じさせることで十分に意味があるからだ。それは結果として、政府に都合の悪い情報を、法で定めた以上により広範にしかも恣意的(しいてき)に制約することが可能になるという仕組みである。
 現実に猥褻(わいせつ)表現物などでは、警察がその出版物を在庫を含め差し押さえ押収するだけで、裁判以上の大きな効果がある。なぜなら、書店が販売を自粛することとあいまって、当該出版物は市場の流通を全面的にストップされることになり、出版社は財政的に大きなダメージを負うことになる。場合によっては雑誌を廃刊したり、出版社の経営がこれが理由で傾いてしまうこともあるという。もちろん同業他社もその様子を見て、将来的な表現の仕方を変更せざるをえないことになる。こうして司法の力を借りることなく、行政の判断で表現の自由の可動域は容易に変えられてしまう危険性が、常に存在していることを知っておく必要がある。
 だからこそ、そうした取り締まりのための根拠を新しく作ることには慎重のうえにも慎重でなければならないのだ。しかも今回はその基準さえもが「不当」という曖昧な言葉で、その判断は「社会的常識」であると立法者が説明している。これは、いかようにも取り締まり基準は変更可能であることを、いみじくも言い表しているものだ。
 にもかかわらず法施行の翌日の紙面を見ると、最も影響を受けるはずのメディアの側に緊張感が感じられないものが目につく。例えば産経新聞は2面の小さな扱いで、しかも見出しは「『知る権利』保障」だ。社会面でも、これまでスパイ天国だった日本においてようやく「諸外国並みの態勢整う」としたうえで、取材・報道の自由に対する懸念はない、と断言した。一方で同紙は、執筆記事がもとで元ソウル支局長が韓国国内で訴訟沙汰になっていることに関し、11月28日の紙面では1面トップはじめ5つの面を割いて、知る権利の侵害であることを訴えている。
 あるいは読売新聞は1面で扱ったもののやはり小さな扱いで、記事の中で「報道・取材の自由について、『十分に配慮しなければならない』と明記。記者などが通常の取材で特定秘密を入手しても処罰されない」と危険性がないことを強調した。さらに内面の特集ページでも、政府がこれまでに正当な取材行為として認めた具体例を挙げ「正当な取材妨げず」とした。

「萎縮」効果

 こうしたメディアが示すいわば安心感は、政府がオーバーランは決してしない、という信頼感に裏打ちされたものであろう。しかし実際には、ちょうど時を同じくして出された一通の文書が、そうした淡い期待を打ち崩すに十分なものであった。自民党が11月20日に在京キー局あてに出した「選挙時期における報道の公平中立ならびに公正の確保についてのお願い」というタイトルが付いた要請書である。同様の文書はNHKにも届けられているようだ。そこでは「これから選挙が行われるまでの期間におきましては、さらに一層の公平中立、公正な報道姿勢にご留意いただきたくお願い申し上げます」としたうえで、具体的に出演者の発言回数や時間、ゲスト出演者の選定、街頭インタビューや資料映像の使い方と、こと細かく「指示」をした内容だ。
 内容の問題性もさることながら、こうした行為は、表現の自由の領域では殊更許されない行為である、という認識が出し手に全くないことが最大の問題である。なぜなら表現の自由は「自主規制」が起こりやすい性格を持っており、自由を目いっぱい謳歌(おうか)する表現は、一般的にしないことに起因する。友達同士にしろマスメディアにしろ、言いたいことを少し抑えて、法が定める限界の一歩手前の表現内容・手法をとるからだ。だからこそ逆に、名誉毀損(きそん)などでは免責要件と呼ばれる特別ルールをわざわざ作り、限界を意図的に緩めることで批判する自由を保障しているのである。公共性などが認められれば、名誉を毀損するような表現であっても罰しないという規定だ。
 こうして結果として社会が目指す表現の自由の領域を十分に活用できるように、初めから自主規制が起きることを織り込んだ仕組みを構築してきた。その逆に、だからこそ法が定める限界をより厳しく解釈することや、より強力な自主規制を促す行為(これを一般に「萎縮」効果と呼ぶわけであるが)を、公権力がすることは絶対に許されないのである。
 こうした基本的な法の理解や、これまで社会が構築してきた工夫を、いとも簡単に無視することで壊すような行為は、為政者としての条件に欠けると言わざるをえない。それと同時に、このような認識や姿勢のもとで、秘密保護法が運用されるという「危機」を、表現の自由の担い手であるメディア自身が十分に認識しなくてはならない。
(山田健太、専修大学教授・言論法)