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<メディア時評・ジャーナリズムの任務>危険地域取材は必要 リスペクトの欠如心配


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 「どんなに優しくて使命感が高かったとしても、真の勇気でなく『蛮勇』というべきものだった」。これは、高村正彦自民党副総裁が後藤健二さん殺害を受けて2月4日に語ったとされる言葉だ。それ以前1月21日には、外務省から日本の主たる新聞・放送・通信社が加盟する日本新聞協会あてに、シリア渡航自粛要請が出され大手メディアがそれに従っている事態も明らかになった。

そして今月7日には、渡航を予定していたフリージャーナリストから旅券を返納させ、物理的に出国ができない措置をとった。

「現場」が鉄則

 ここから、取材活動に対する政府やメディア等の姿勢がよくわかる。それは、(1)一般的な退避勧告を超え、特定地域への取材禁止要請を報道界全体に行っていること(2)それを無視して行った報道機関(取材者)が事件・事故にあった場合は無責任な行為とみなされること(3)さらには生命保護を理由として旅券を返納させ、事実上の出国禁止措置までとっていること(4)こうした政府の要請を当然として、取材を続ける他社を批判する大手新聞社があること(5)ネット上ではいわゆる自己責任論と合わせ、政府の姿勢を支持する意見が相当程度強いこと―である。さらに同時期、外務省はテレビ朝日「報道ステーション」の報道内容が、「国民に無用の誤解を与えるのみならず、テロリストを利することにもつながりかねないものであり、極めて遺憾と言わざるを得ません。当該報道に関し強く抗議するとともに、本日の番組の中で速やかに訂正されるよう強く求めます」との申し入れを2月3日に行っている。
 ジャーナリズムの最大の役割は事実の伝達であり、そのためには「現場」を直接取材することが鉄則だ。その現場は時に危険でもあるし、一般人が立ち入りを制限されている区域であることも往々にしてありうる。場合によっては取材行為が法に反する場合もないとは言えないが、その場合は自らの責任と覚悟で、取材の可否を判断することになる。それこそが高い経験と職業意識に裏付けられた報道倫理というものだ。念のために付け加えるならば、ここでいう責任とは、いま巷間で言われる自己責任とは全く異なるもので、ジャーナリズムに課された役割を果たすという意味での社会的「責任」である。
 実際、東日本大震災でも放射線量が高い地域に多くの取材陣が入ったし、そもそも政府が決めた「危険地域」が、のちに間違っていたこともわかった。当時、大多数の新聞・放送局は政府の決め事に従い、取材を自粛したわけであるが、少なくとも建前上は、政府にいわれたからではなく、自らの判断として記者の健康に影響があると考えたからであった。それでも多くの一般市民は、取材をしない大手メディアを厳しく糾弾をした。それにもかかわらず今回は、政府が渡航自粛を要請したことを根拠に取材しないことを正当化するメディアがあり、それをむしろ支持するネット世論があるというのが、大きな違いだ。そこには、目に見えない「国益」という魔物がいるのではないか。
 これと同じことはまさに沖縄で日常的に起きている。辺野古新基地建設をめぐる住民の反対運動取材に関してだ。ここでも政府は、海上の安全保持を旗印に、そして法に基づき立ち入りを禁止していることを理由として、記者の取材を当初から一貫して妨害してきている。しかも年明け以後の工事再開にあたっては、実際に記者に手をかけるなど、実力を行使して取材を妨害する事態も発生している。形式的には取材行為自体が違法であり、また違法な住民活動を伝えることが好ましくないという論理であるが、ここで政府は「国益」を守るため、都合の悪い事実を隠そうとしている可能性が高い。

民主主義支える

 このように、政府が見せたくないもの、見たくないもの、知らせてほしくないもの、そして何かが起きた場合、責任をとりたくないことについて、それを阻害しようとする力が強く働いていることがみえてくる。それはたとえば、1年前の2月に琉球新報が報じた自衛隊基地建設の記事に関し、防衛省が当該社とともに新聞協会に抗議を行ったことでもよくわかる。
 こと戦争に関しては、ジャーナリストが現場の事実を伝えなければ、当事者国の都合の良い情報だけが「事実」として喧伝(けんでん)されることになる。とりわけ自称「イスラム国」はインターネットを使って直接世界中に自己PRする術に長(た)けており、実際、今回の事件でももっぱらわれわれは、相手方からの一方的情報に右往左往することになった。だからこそ、多くの国では戦争報道はジャーナリズムの重要な任務であり義務であり、それは民主主義を支える活動であると理解されてきている。
 もちろん、自由な報道が政府の利益を損ねると時の政権が考えることも一方の現実で、ベトナム戦争の「反省」からその後、米国でも自国の戦争に関しては強い取材・報道制限をかけている。それでも、湾岸戦争で米軍がバクダッドを空爆するさまを、現地で生中継したのは紛れもなく米国の放送局CNNやABCであった。そして米国政府もそして市民もそれを当然のこととして受け止めてきた。実際、今回の事件に際しオバマ大統領は、後藤さんの過去の戦地報道を賞賛するコメントを発表している。一方で日本政府や社会の態度は、明らかにそれとは異なるもので、戦地・紛争地を取材すること自体を批判している。
 さらに言えるのが、国家の手が届かない活動をするNGO活動やジャーナリズム活動に対する、日本社会全体の決定的なリスペクトのなさである。政府がいう人道支援の具体的な形として、紛争地の食糧・医療支援の多くは民間の国際NGOによって支えられている。こうしたNGOの活動、その前提の現地の状況をきちんと伝えることも、政府にはできない部分を埋めるいわば「パブリック」な活動だ。こうした公共的な仕事は、政府が社会の先頭に立って尊重し、支える必要があるにもかかわらず、そのまったく逆の状況を作っている。それは、日本の安全保障政策の貧困とともに、ジャーナリズムへの無理解を露呈し、いわば民主主義の基礎を否定したことになるわけであって、一連の政府・政権党の姿勢には極めて強い憤りを感じる。(山田健太、専修大学教授・言論法)