「痛みは70年間消えない」 民間戦争被害訴訟


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 沖縄戦とパラオなど南太平洋の戦争に巻き込まれた民間人やその遺族らが、国に対して謝罪と損害賠償を求めた訴訟の弁論が4日、那覇地裁(鈴木博裁判長)で開かれた。原告本人の尋問が始まり、3人が戦争被害について話した。被告の国側はいずれも反対尋問をしなかった。

 静岡県から参加した山岡(旧姓・大山)芳子さん(73)は、現在の那覇市首里大名町で生まれ、沖縄戦で両親と祖父、兄と妹の5人を失った。1945年4月下旬に戦火が激しくなり、親戚と共に那覇市識名の墓に隠れたが、5月に日本軍に追い出された。「母に抱かれた兄と妹の間に弾が落ち、2人とも体が半分なくなって亡くなった。足をけがした母の泣き叫ぶ声が今でも聞こえる」と話した。戦後に親戚が援護法の適用を申請したが、証人がいないことを理由に却下された。「戦争はしてほしくない。子や孫に苦しみや悲しみを残したくない」と訴えた。
 那覇市首里当蔵町出身の前原(旧姓・渡慶次)生子さん(78)は、避難中に自然壕に入ったが日本軍に拳銃を向けられて追い出され、父と祖母、母の3人を亡くした。自身の右肩には、爆撃を受けた傷が残る。「傷口が恥ずかしくて、海で泳いだり温泉に行ったりしたことは一度もない。両親を亡くし、言葉にできないほどの寂しさがあった」と声を詰まらせた。
 現在の宮古島市下地上地で生まれ育った豊見山貢宜さん(76)=南城市=は、6歳のころ日本軍に飛行場建設作業を強制された。米軍機から攻撃を受け、両足4カ所に弾が貫通する重傷を負った。「小学校への入学は2年近く遅れた。勉強を思うようにできなかったことがつらかった。痛みはこの70年間消えたことはない」と胸中を吐露した。援護法の適用申請は「宮古島では米軍の上陸がないので原則的に戦闘参加者とは認められない」として却下された。
 次回は5月13日開かれ、原告3人の尋問が実施される。瑞慶山茂弁護団長は「年内には判決が出ると思う」と話した。