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<メディア時評・集会の自由>力の排除、許されない パブリックフォーラムと合致


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 原発と基地――いずれも国論を二分する大きな問題だ。その政府の施策については、当然のことながら異を唱(とな)える人たちがいる。しかし一方で行政あるいは関係機関は、既定方針を滞りなく進めたいがために、時に情報を出し渋り、異論を封じ込めようとする。例えば東電は、事故を起こした福島原発の放射能汚染水の情報を意図的に隠蔽(いんぺい)したことが、幾度となく明らかになっている。あるいは経済産業省前に事故半年後から設置され続けてきたテント(テントひろば)について国が提訴し、立ち退きと地代支払いを求める地裁判決が先月末にあったばかりだ。

 これとそっくりな状況がいま、沖縄でも起きているといえるだろう。その一つが、県が情報公開条例に基づき開示決定した公文書について、米軍からの要望を受けて国が、決定取り消しを求める訴訟を3月4日に提起した件である。そしてもう一つは、キャンプ・シュワブのゲート前国道脇に設置された仮設テントや看板などの撤去を、沖縄防衛局と内閣府沖縄総合事務局北部国道事務所が2月27日に求めたことである。
 この二つはそれぞれ、情報の収集過程における「受け求める権利」と発表過程における「表現し伝える権利」を制約しようとしている点で、紛れもなく表現の自由の問題である。ここでは、抗議活動は、参政権の一形態であり、同時にまた表現の自由の行使であることを確認しておきたい。

多様な民意の表し方

 参政権は、各種選挙や憲法改正国民投票・最高裁裁判官審査、さらには与那国島で行われたような住民投票を指すことが一般的であるが、それ以外にも行政手続法によってパブリックコメントが制度化されている。実際、国や地方自治体を問わず、行政機関が新たな政策を実行する前には、特定秘密保護法の時もそうであったように、法では義務化されていなくても類似の方法によって意見聴取を行うのが一般的だ。さらには、原発などでは公聴会という形で住民の意思を確認したり、意見を吸い上げる制度もある。あるいは、公務員就任権という形で、自らが行政の一員となることで、国・自治体の意思決定に参加するという方法もある。
 しかしこれらのほかにもう一つ、重要な意思表示の方法がある。それが請願権である。これも通常は、議会あるいは行政の長等に提出する署名や請願書の類いを指すが、伝えたい相手に対し自らの意思を表示するための直接的な表現活動も、重要な請願行為ということができよう。具体的には、官邸前や国会議事堂周辺、経産省前の原発や集団的自衛権といった政府方針に対する抗議活動がそれにあたる。同様に、沖縄の高江や辺野古における米軍基地建設にかかる反対(抗議)活動も、このカテゴリーに含めることができるだろう。
 この抗議活動には、当然にシュプレヒコールなどの口頭による意思表示行為のほか、立て看板やのぼり旗といった視覚的な形態も一般的であるし、そうした活動の象徴的な存在としてテントなどが設営されることもありうるということになる。こうした意味で、キャンプ・シュワブのゲート前で行われている仮設テントをベースとした抗議活動は、ある種の政治的意思表示のための請願活動の一種と捉えることができることになる。とりわけ今回の活動が、選挙での民意の結果が現場に反映されないという政治状況を前に、緊急的かつ必然的な住民の意思の確認作業であり、異議申し立ての政治手法であるという点においても、重要な意味があるとみることができよう。
 表現行為としての抗議活動という点では、典型的なプリミティブな大衆表現行為としてとらえることができる。ビラやチラシ、そして集会やデモ行進が具体的な形態として表れるもので、憲法21条で「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」と、最初に集会の自由を挙げ集団示威行為を市民的権利として保障している(9月の当欄参照)。民意の表し方にはいろいろな方法があってよい。とりわけ一般市民の抗議活動の類いは、社会が有する痛みを訴えるために、誰もが有する表現の発露として社会全体として大切に守る必要がある。

テントは集会の自由

 もう一つの論点が、道路脇を一時的に占有するテントの設営が、ここでいう集会の自由に含まれ、抗議活動の一形態として憲法上の保障の範囲か、ということである。基本はまず、いかなる形態であろうとも集会が成立するためには何らかのスペースが必要であり、通常、公園や広場といった屋外の公開空地もしくは、公民館や公会堂といった主として公営の屋内施設が想定されている。もちろん、民営や私人の所有物であっても、公共性が高いと判断されれば、同じ位置づけがされる場合もある。例えばホテルや学校などがその一例として挙げられよう。
 そして公共道路や公的施設前の空地も「動く集会」と形容される抗議行動を含む集会を実現するための重要な空間として、日本を含む多くの国で歴史的社会的に認知をされてきている。そして本来であれば、政府は批判を含めさまざまな意見表明を積極的に受け入れることが求められているのであり、そのための機会と場を提供しなくてはならないといえるだろう。しかしそれが適(かな)わない場合は少なくとも、「すべての人に対し開かれた公共的な集会の場」を提供している場合、それを妨げることはあってはならないのであって、辺野古テントはこの類いのものであるとみることができよう。
 それはまた従来から主張されている「道路を利用する権利」としてのパブリックフォーラムの考え方とも合致するものだ。その場所の所有者や管理者の一時的な権利を上回る、意見表明行為の公共性がある場合には、表現の自由が保障されるための公共的言論公共空間が保障されることが、成熟した民主主義社会のかたちである。そうした表現行為を力で排除しようとすることは許されまい。
(山田健太、専修大学教授・言論法)