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<メディア時評・公権力とテレビ>放送法の性格変更 独立行政委の再構築を


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 いま、沖縄で「時の人」の菅義偉(すがよしひで)官房長官は、東京でも強面(こわもて)ぶりを発揮している。3月27日のテレビ朝日系「報道ステーション」の番組内での発言に対し、わざわざ「放送法」を持ち出し、放送局を牽制(けんせい)したからだ。

官邸念頭の謝罪
 番組のコメンテーターとして出演した元経済産業相官僚の古賀茂明氏は、(1)官邸が放送局に対し特定人を出演させないよう圧力をかけた、(2)テレビ朝日もしくは古舘プロダクションの上層部が番組内容に介入した、(3)キャスターの古舘伊知郎氏もこうした動きを認めていた旨の発言を行い、それを否定する古舘氏と口論になる場面が流れた。これに関しては、編集権(編集・編成の独立)や報道番組あるいはコメンテーターのあり方など、ジャーナリズム上の問題が存在する。しかしもっとも重要なポイントは、週明けの30日に、菅官房長官が午前中の記者会見で発した一言にある。
 そこでは、番組中でコメンテーターが自身の名前を挙げて「バッシングを受けた」としたことに関し、「全く事実無根であって、言論の自由、表現の自由は極めて大事だと思っているが、事実に全く反するコメントをまさに公共の電波を使った報道として、極めて不適切だと思っている」とし、「放送法という法律があるので、まずテレビ局がどう対応されるか、しばらく見守りたい」と述べたのである。
 これに対し、番組や局がすぐに謝罪をする事態となった。当日晩の番組では古舘氏が、「古賀さんがニュースと関係ない部分でコメントしたことに関しては、残念だと思っています。テレビ朝日といたしましては、そういった事態を防げなかった、この一点におきましても、テレビをご覧の皆様方に重ねてお詫(わ)びしなければいけないと考えております」とした。さらに重ねて翌31日のテレビ朝日定例記者会見においても早河洋会長が、形の上では視聴者向けの謝罪ではあるが、実際には官邸を念頭においたようにみえる対応をした。
 「ニュースの解説・伝達が役割の番組で、そのニュースに関する意見や感想のやり取りではなく、出演をめぐる私的なやり取りみたいなものが番組内で行われたということは、あってはならない件だった。番組進行上あのような事態に至ったことについては反省しており、視聴者の皆さまにお詫びしたいという気持ち」「制作体制を総点検するよう去年暮れに指示したが、固有名詞を挙げて議論したことはない」「(官邸からのバッシングについては)内容は承知していない。私のところにも吉田社長(吉田慎一代表取締役社長・元朝日新聞社編集局長)のところにも圧力めいたものは一切ありません」

事件の「肝」
 ではなぜ官邸は、新聞や週刊誌で同じ内容の発言があっても文句一ついわないのに、放送には厳しい態度に出るのかである。あるいは放送局は過剰と思えるまでに、謝罪を繰り返さざるをえないのか。ここに、今回の「事件」の肝がある。端的にいえば、官房長官発言には放送は国がコントロールするべきものという、「信念」が滲(にじ)み出ている。それは、NHKについても民放についても同じだ。もちろんその表れ方は異なり、前者の場合は会長等の人事や、国際放送に関する放送内容の「要請」に顕著だ。そして後者の場合は、行政指導という名の下での法の解釈の押しつけによる、個別番組への「介入」という形で現れる。
 そしてその背景には、単に官房長官が発言したということ以上に、安倍首相の下での菅官房長官の発言であるということに重みがあることを知っておく必要がある。なぜなら、両者は放送界にとって、最強のコンビともいえる存在だからだ。形の上では自民党からではあるものの、先の衆議院選挙の公示直前に、各放送局あてに「政治的公平」を求める文書を発信、街頭インタビューの仕方にまで踏み込んだ具体的要求は、番組の自主性を奪う以外の何ものでもない。その文書の中で、わざわざかつての選挙報道で政治的公平さが国会でも議論になったテレビ朝日事件を引き、選挙報道の内容に強く踏み込んで制約を課した(過去のテレビ朝日事件の詳細は例えば、拙著『法とジャーナリズム』学陽書房、2014年参照。衆院選の報道要請の詳細は例えば、拙著「自由な言論をだれが妨げているか――『自主規制』という名の言論統制」『季論21』15年冬号)。ただし付言しておくならば、番組は公平さを欠くものではなかったという局の報告書を政府は了承した経緯がある。
 なにより、放送法に定められた「事実報道」「政治的公平」「多角的論点の提示」といった番組基準は、放送局の自律的努力によって守られるべき基準であるとされてきた。それが1993年を境に、一方的に政府は法解釈を変更し、これら基準に個別の番組が合致しているかどうかを政府が判断するとし、反した場合は事実上の業務改善命令である行政指導を行う方針に変更してきた。その具体的な運用を積極的に推し進めた時期が2004年からの4年間で、この時期は安倍晋三自民党幹事長・官房長官・首相の時期であるとともに、放送事業の免許権限を有する総務大臣が菅義偉であったのである。

違憲の疑い
 改めて確認しておくべきは、放送法の法的性格を、倫理的規定から法的拘束力を有するものに勝手に変更することは、事業者の自律を強調していた放送法の趣旨に合致しないということだ。それどころか、憲法で保障されている表現の自由に矛盾することになる。むしろ放送法は、その法目的条項ではっきりと、政府に放送の自由を保障することを求めている。こうした違憲の疑いが濃厚な解釈をもとに、その運用を強引に推し進めることができるのは、それを一方的に押し付けられる側の放送局が、免許事業であるという点で所轄官庁=政府に逆らえない構造があるからだ。
 こうした一連の状況をすべて知り尽くした現在の政権が、いまテレビ朝日やNHKに限らず放送全般に対して積極的な態度をとり続けているということこそが、大きな問題である。こうした状況を断ち切るためには、戦後すぐに民主主義的な放送法体系の一つとして存在していた、放送免許の交付権限を含む放送行政を担当する独立行政委員会を、改めて再構築すべき時期なのかもしれない。行政権がより巨大化し、しかも謙抑性が微塵(みじん)も感じられない状況が、各領域で頻発しているからだ。同時にどのような制度下においても、上から目線の「粛々」も許されないが、当事者が恫喝(どうかつ)に受け取りかねない無遠慮な物言いは、公権力は絶対に避けねばなるまい。
(山田健太、専修大学教授・言論法)