「戦争向かいつつある」 辺野古集会に参加 広島の米澤さん


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「沖縄は日米安保の犠牲になり続けている」と話す米澤鐵志さん=12日午後、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前

 【辺野古問題取材班】1945年8月6日、原子爆弾が落とされた広島で被爆した米澤鐵志さん(80)=京都府=が12日、名護市辺野古の米軍キャンプ・シュワブゲート前を訪れ、辺野古への新基地建設に反対する市民らの集会に参加した。

「世界一危険な基地の規模をさらに大きくして、(県内の)別の場所に基地を造るのはけしからん話だ」と憤る。
 当時小学5年生で、広島県内の田舎に疎開していた米澤さん。8月6日、広島市内の実家へ戻るため、母親と満員の電車に乗っていた。突然、光線とともに「ドン」と大きな音が響き、電車のガラス窓が全て割れた。爆心地からわずか750メートルの地点だった。
 電車を降りて街へ逃げると、辺りには黒焦げの死体が横たわっていた。被爆から2週間後、母親が亡くなった。米澤さんも高熱を出し、髪が全て抜け落ちたが、奇跡的に熱が下がり、被爆による死を免れた。「地獄をたくさん見た」と、当時の情景を思い起こす。
 「一瞬のうちにたくさんの人が殺された広島・長崎と、鉄の暴風が吹き荒れた沖縄はつながっている」と、戦後70年たっても過重な基地負担を抱える沖縄の現状に関心を持ち続け、これまでにも辺野古を数回訪れた。戦争体験者として「私たちが子どもだった時代と同じで、戦争に向かいつつある」と話し、民意を聞き入れず基地建設を強行する政府に対し危機感を強めた。