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<メディア時評・報道の外部検証>知見共有し倫理向上を 政治家の思惑 不幸な事態


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報社

 新聞やテレビで、報道内容を外部の識者が検証するという事案が続いている。しかしこれらに対しては、秘密保護法の監視制度が官僚の秘密指定の追随にしか過ぎないと批判するメディア自身が、社の結論に「お墨付き」を与えるような外部機関の運用をしてよいのか、という批判がある。

■朝日とNHKの迷走
 あらためて、朝日「誤報」問題を振り返ってみよう。ただし、記事の是非ではなく、自らの記事を検証し改善するために作った「組織」についてである。社は事案の収束を企図し、原発「吉田調書」記事の取り消し・社長謝罪ののち、既存の組織(報道と人権委員会)に検証を委ねた。ただし、すでに社の結論が出ている中、それを補強するものでしかなりえない宿命を背負っていたといえる。
 そして慰安婦「吉田証言」記事については、統一的見解の困難が予想できる委員からなる「慰安婦報道検証 第三者委員会」を設置。これとほぼ同時に、同じく外部委員を含む「信頼回復と再生のための委員会」を立ち上げ、慰安婦報道や池上コラム不掲載の検証を同時進行で行うことになった。ここでも、両委員会で別の結論が出るということは、初めから想定しなかったということになるのだろうか。少なくとも朝日は、当事者による検証を放棄し、外部にその判断を委ねてしまったとの批判を、引き受けざるを得ない状況を自ら作り出したということになる。
 そしてこれらの提言や報告を受け、現在の朝日新聞社組織図には、ライン系統から独立して、いずれも外部委員からなる「編集権に関する審議会」「紙面審議会」「報道と人権委員会」の三つの組織が存在する。一方で新しく設置された「パブリックエディター」は社員と外部識者の混合体で、「統括・担当・代表」の管轄下におかれ、組織上の地位は「記者規範監事」や「ジャーナリスト学校」と同列である。こうして外部の意見を多方面に受け入れ、社の意思決定過程に関与させる手法は、紙面化過程の透明化として斬新ではある。しかし一方で、検証・検討組織が多すぎて責任の所在をかえって不明確にする危険とも隣り合わせであるといえるのではないか。
 翻っていま、NHKは看板報道番組「クローズアップ現代」のやらせ疑惑に直面している。そして外部委員を含む検証委員会は、調査報告書の中で「過剰な演出」や「視聴者に誤解を与える編集」はあったものの、「やらせ」はなかったと結論付けた。それを受けて番組ではキャスターが涙を浮かべて謝罪をしたものの、事態は一向に収拾しない。
 むしろ当該報告書を逆手に取って政府は、放送法違反の番組であったとして行政指導を行い、「企画や試写等でのチェック」体制についてまで踏み込み、事実上の事業改善命令を出すに至っている。一方、当事者の出演者も対応を不満としてBPO=放送倫理・番組向上機構に訴える事態となった。さらにそのBPOについて政権党は、官僚を委員に含めるなど国の関与を含む改革を具体的に示しているのである。
 個々の委員の意思は別にあったとしても結果として、報告書は当該者の権利救済にもつながらず、政府の介入を防ぐ手だてにもならなかった。NHKの文法ともいわれる番組制作手法や、制作現場の物理的限界を超えていたのではないかといった構造的な問題に踏み込まなかったことから、放送倫理の向上にもつながらない可能性が高いだろう。

■迷走からの脱却
 こうした外部検証・監視機能を持つ組織が報道界に生まれたのは、四半世紀前の1990年代である。それはまさに権力と市民の挟撃にあって、やむにやまれず誕生したものといえるだろう。具体的には、80年代の事件・事故報道に関する被疑者報道が、犯人視をするあまり紙上裁判になっていないかとの批判が高まったこと、これを機に取材・報道規制を進めようとする政府・自民党の強い立法圧力があったことがあげられる。
 そうした中で、新聞界は苦情申立機関や紙面検証組織を矢継ぎ早に設置した。時期を同じくして放送界では、より完全な独立性を求め、BRC(現在のBPOの前身)をNHKと民放の共同で設立したのであった。同機構の役割は、当初の(1)権利侵害の救済、に加え、(2)報道倫理の向上、(3)表現の自由擁護―があり、これらは諸外国の報道評議会(プレスカウンシル)と呼ばれる同様の組織と同じ目的を有するものだ。
 最近は、企業に不祥事があると弁護士を招いた外部組織を設置し、企業としての禊(みそ)ぎを行うことが一般化している。こうした一般企業の検証組織や、日常的なコンプライアンス業務と、メディアのそれらはどう違うというのか。言論・表現の自由を標榜(ひょうぼう)する報道機関は、その行き過ぎや過ちを「内在的に自制」することが報道倫理として求められているが、それに反する可能性はないのか。そもそも、自らの過ちの検証を他者に外部化することで、そうした自律性は守れるのか。しかもその検証が社の意向を忖度(そんたく)するような状況があるとすれば、検閲の内面化とすら言えるのではないか、という厳しい非難を受けざるを得ない局面にある。
 すべての場面に適用可能な明示的で具体的な報道倫理のルールは存在しえない。だからこそ、時々の報道の「失敗」についてはその都度の「検証」も必要だ。そしてその検証作業は、ジャーナリズムの倫理に関する包括的な専門知識が必要であるとともに、取材・報道現場の記者活動に対するリスペクトがなくてはならない。こうした中で得られた知見は、経験として報道界全体で共有し、蓄積・継承されてこそ、日本の日本らしい報道倫理の向上が期待できる。残念ながら直近の個別事案の検証活動ではそうした思いは軽視されていると思わざるを得ないし、それを制度化する手だてもない。それどころか、政治家からは報道機関への制裁の口実に検証作業を利用しようという思惑が続いている。これはジャーナリズムにとって不幸な事態であり、変える必要がある。
(山田健太、専修大学教授・言論法)