東村・農林隊最期の碑に刻銘板 遺族「やっと浮かばれる」


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家族の名が刻銘された石碑に手を合わせ、鎮魂を願う遺族ら=22日、東村内福地

 【東】沖縄戦中に東村内福地で戦死した県立農林学校の学徒や隊長の計11人をしのぶ慰霊祭が22日、同村内福地の「県立農林学校隊最期の碑」で開かれた。遺族や同級生、北部農林高校の生徒など100人近くが出席した。

 ことしは、名桜大学前学長の瀬名波栄喜さん(86)の調査で判明した、学徒10人と隊長1人の名が記された刻銘板が石碑の台座の側面に設置された。家族が亡くなった場所付近に初めて訪れた遺族らは「やっと最期の地で手を合わすことができた。亡くなった家族もようやく浮かばれる」と語った。

 式では同級生代表として渡口彦信さん(88)が「つぼみのうちに散った学友の顔が浮かぶ。不戦の誓いを後世に語り継ぎたい」と述べた。北部農林高校の大城千佳生徒会長(17)によるあいさつの後、遺族らが焼香した。

 駆け付けた遺族はほとんど中南部や離島の出身者だ。戦中、農林学校では約170人が鉄血勤皇隊に動員され、北部の戦地を転々とした。同隊が解散した後、配属将校の尚謙少尉と同行したのが中南部や離島出身で、名前が刻まれた学徒10人だった。その事実を知らなかった遺族もいる。

 宮古出身の故狩俣栄氏の弟、狩俣幸男さん(79)は兄が本部町で戦死したとの情報を聞き、両親と同町の八重岳を訪れ、遺骨の代わりに石を拾っていた。そのため、新聞で兄の最期の地を知って驚いたという。幸男さんは「こんな山奥まで逃げてきたんだなあ」と連なる山々を見渡した後、「名前も刻んでもらったから本人も浮かばれるさ」と何度も繰り返した。

 兄の故神谷仁助氏が名護市久志地区で亡くなったと思っていた仲本光子さん(81)は「兄を失ったことを知った母が動揺し、慣れないたばこを吸って心を落ち着かせていたのを覚えている」と振り返り、「亡くなった兄へどんな言葉を伝えていいものか」と胸を詰まらせた。

 兄の故大城甚勝(じんしょう)さんが内福地周辺で亡くなったと聞いていた妹の儀保秀子さん(77)。沖縄戦から70年たってようやく正確な事実を知ったことに「瀬名波さんの調査ではっきりした。一生懸命に調べてくれてありがとう」と喜んだ。

 悲しみの中にほっとした表情を浮かべる遺族ら。その表情を見た瀬名波さんは、戦争で父を亡くした思いを重ね「一坪一坪、土を掘ってでも亡きがらを捜したいのが遺族の気持ちだ。名前が刻まれたことで少しでも安らぎを感じてくれたらうれしい」と語った。