社会

宮森の惨状語り継ぐ 米軍機墜落から56年

事故の様子を語る伊波則雄さん=29日、読谷村瀬名波

 【うるま】1959年6月30日、米空軍嘉手納基地を飛び立ったジェット戦闘機が、石川市(現・うるま市石川)の住宅地と宮森小学校に墜落した事故から30日で56年。事故で児童12人(うち1人は後遺症で死去)と周辺の住民6人が尊い命を落とした。

事故機は後に、整備不良の機体だったことが明らかになった。30日、遺族や当時の在校生など関係者が参列する慰霊祭(遺族会、NPO法人石川・宮森630会主催)が午前10時から行われる。慰霊祭を前に、宮森小学校で児童による追悼集会が開かれる。
 「すごい爆音が上空を過ぎた。屋根が崩れ落ちるような耳をつんざく音。自分に落ちてくる感覚だった」。石川地域で巡回教師を務め、宮森小学校米軍ジェット戦闘機墜落事故直後に学校へ走った伊波則雄さん(77)=読谷村。事故を知る遺族や教員が減るなか「もう自分しかいない」と、56年前の惨状を語る。
 故豊濱光輝さん(享年79)=前NPO法人石川・宮森630会会長=と、欠員を補充する巡回教員で6月いっぱいの契約だった。事故は、契約最後の日の午前10時40分ごろに起きた。
 石川中で1時間目の数学の授業を終えて教育事務所に戻った時、普段は金武湾上空を飛ぶ戦闘機が、その日は違った。「やなジェット機ぐゎー、うてぃれーしみくぁいるむん(憎らしいジェット機め、落ちてしまえばいいのに)と言い終わらないうちに爆音がした」。外には黒い煙。事務所の窓を越えて駆け出した。
 通学門の前まで行くと、女性に「お願いします」と、子どもを預けられた。髪の毛が焼け縮れ、肌は青白く、背中にだけ直径10センチほど着物が焼け残っていた子。「手を引いて少し歩いたら『痛いよー、痛いよー』と言うからおぶった。そしたら、お尻の方でビリッという音がするから見てみたら、その子の皮膚が(はがれて)私の服に付いていた」。学校に向かってきた警察官2人も引き取らず、やがて米兵たちがその子を連れて行った。
 学校に戻り、バケツで井戸水を運んで消火活動をした。6年4組の担任だった兄・常雄さんは現場を撮っていたカメラを米兵に取られ、フィルムを抜かれた。
 後に、米兵に引き渡した子は「息を引き取った」と聞いた。2年生の喜屋武玲子さんだった。
 事故後の石川地域は話を鎮めようという雰囲気になった。「賠償問題もあって、人々も貧しく、お金が欲しい時代。基地撤去を言うと叱られる。しゃべるのも怖かった」と思い出す。事故の記憶は封印された。
 事故から56年―。「今になって新聞を見たら、賠償金も微々たるもの。被害者がどれだけの扱いをされていたか…」と肩を落とす。
 5年前、焼香をしに玲子さんの遺族を豊濱さんと訪ねると「33回忌も終わって、思い出したくもないのに、なぜ今ごろテレビや新聞で騒ぎ立てる?」と玲子さんの父に問い詰められた。「こんな大惨事は被害者個人で悲しんでいたら犠牲者が浮かばれない」と言うと「互いに基地がなくなることを願っている。焼香をお願いします」と言われた。
 「黙ってきたことを自問自答してきた」。きょう、記憶の継承を誓って、慰霊祭に参列する。(東江亜季子)



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