奄美で対馬丸慰霊へ 生存者上原さん、71年ぶりに訪問


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洋上慰霊祭で使ういかだと灯籠、手向ける予定の折り鶴を手にする上原清さん=28日、うるま市

 71年前に米軍に撃沈された学童疎開船「対馬丸」の生存者、上原清さん(81)=うるま市=が船の沈没後に漂着した奄美大島を来月上旬、戦後初めて訪れる。

地元の協力を得て洋上慰霊祭を執り行う予定で「いかだに乗って流された多くの命が漂流の途中で消えていった。沈没後、奄美大島に生存者ほか多数の遺体が流れ着いていたことを多くの人に知ってほしい」と話している。
 上原さんは沈没後6日間漂流し、沈没したトカラ列島悪石島から約150キロ離れた奄美大島の大和村にたどり着いた。大和村の隣の宇検村の焼内湾では、105体の遺体が引き揚げられ、地元の人は「肉の海」と呼んだという。
 「漂流中、一番苦しかったのは喉の渇き。漂着した遺体の多くが途中までは生きていたはず。1週間飲まず食わずのうちに力尽きたのだろう」。上原さんは自身の体験と重ね、失われた多くの命に思いをはせる。
 過酷な体験ゆえ、60年語ることができず、奄美大島を訪れるのも漂着以来初めて。今回は自身が漂着した浜辺を訪れ、焼内湾で洋上慰霊祭を開く。小さないかだに灯籠を乗せて流し、開南小学校の児童が折った折り鶴を海に手向けるつもりだ。「助かった所に一度はお礼を言いたい。年齢的にもこれが最後だと思うから」
 対馬丸は1944年8月22日、悪石島付近で、米潜水艦ボーフィン号の攻撃を受け、沈没した。