戦前実施「献穀田」の儀式調査 「早乙女」城間さん証言


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旧知念村志喜屋で行われた献穀田について説明する城間貞子さん=19日、南城市大里字平良公民館

 【南城】沖縄戦前に旧知念村と旧玉城村で実施された、天皇へ献上する米の苗植えをする「献穀田」の儀式の写真を基に、当時実際に植え付けをした17歳の「早乙女」の一人から聞き取りが行われた。南城市の旧4町村の戦争体験者証言や資料を収集している市史資料集戦争専門委員会(吉浜忍委員長)の調査の一環で、これまであまり知られていなかった献穀田の様子が浮かび上がった。

 献穀田行事は県内でも水稲栽培が盛んだった恩納村で1934年に実施され、南部2カ所と北部でも執り行われていた。旧知念村志喜屋集落では1943年、湧き水が出る親川仁盛さんの田んぼで早乙女20人が苗を植え付けた。
 専門委員会の委員で市嘱託の幸喜徳雄さんらが、当時献穀田に参加した城間貞子さん(旧姓親川、90歳)と19日に面会。献穀田の際に写した写真を見せたところ「こちらが親川栄蔵村長、私はこれです」と指で説明し、はっきり覚えていた。
 早乙女たちは全員、玖波笠(くばがさ)をかぶって、もんぺ姿。時の村長や区長、小学校教諭、それに県庁の技官らが参加して「今日はめでたや 知念村のゆらていくゆらていく 献穀天皇お田植え…」と歌いながら、苗を植えていったという。城間さんは歌詞も歌い、委員らを感嘆させた。
 収穫した米は皇居で開催された新嘗祭の席上で、天皇に献上されたという。
 城間さんは「音楽隊も来て、式典の後に整列して苗を植えていった。しばらくすると戦争が始まり、集落後方にある自然壕に避難した」と語った。
 一方、旧玉城村百名での献穀田は翌年の1944年に実施され、その時の写真も見つかっており、関係者から詳しい情報収集が進められている。
 北部で予定されていた献穀田は戦争勃発(ぼっぱつ)のため実施されなかった。
(知花幸栄通信員)