【カナダ】一世奮闘バンクーバーに生きる(下)/知花 仁常さん


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 知花仁常さん(88)=平安座島出身=は、農業契約移民として3年間働いたあと、バンクーバーから車で北へ約1時間ほどのウッドハーバーにある製紙工場で働き始めた。「外国に出た以上、せめて父母のたばこ代やお茶代くらいは送金したい」と思ったからである。

 当時そこには約500人の日系人が働いていた。初任給は時給42セント(約1円40銭)で、時間外労働をすれば超過勤務手当も入るようになった。「600円もあれば沖縄で立派な家が建った」と言われていたころに2カ月に1度、30ドルという高額な送金をしている。
 知花さんの海外生活が軌道に乗ってきた1939年、カナダ政府は対独宣戦を布告、第2次世界大戦に参戦し排日機運が高まってくる。42年、「日系人強制移動令」が発令され、知花さんは姉の家族と共に、バンクーバーから飛行機で約2時間半、カナダ中部のサスカチワンへ移り住む。
 義兄がひよこのふ化場で働いていた関係で、ひよこの鑑別の技術を学び鑑別士となった。鑑別士としての仕事は、ひよこ1羽1セント、1時間に1000羽ほど鑑別し、忙しい時は一晩で1万羽のひよこを鑑別したこともあった。
 誰にでもできるものではなく、特殊な職業だったため、年に3カ月の季節労働であっても普通の人の1年分を稼ぐという、当時日本人としてはトップクラスの収入であった。
 第2次世界大戦が終結した2年後の47年、カナダで沖縄の戦災に対する沖縄復興援助運動が起こり、知花さんは「在加沖縄復興連盟」サスカチワン地方委員として活躍した。
 仕事のある時はカナダ、それ以外は沖縄へと、日加間を行ったり来たりしていた知花さんは、55年、母親の紹介で同じ平安座島出身の弘子さんと結婚。60年、18年間住んでいたサスカチワンを離れ、バンクーバーダウンタウンから南東へ1時間半ほど行ったチリワックへ移り、その後バンクーバーに戻った。
 知花さんは75年に創立された「カナダ沖縄県友愛会」(現バンクーバー沖縄県友愛会)の発起人の1人であり、現在も会の長老として会員の信望が厚い。先日、ある会員の葬儀で会った折、「祝いの席には出なくてもまた会う機会もあるが、お葬式は最後の別れだから必ず出るようにしている」と語った言葉が知花さんの温厚な人柄を表していて印象的だった。
 知花さんは66歳で退職、2男3女に恵まれ、現在娘さん3人、お孫さん2人と共にバンクーバー近郊のコクィットラム市に在住。楽しみは毎週土、日曜日にバンクーバーダウンタウンのパブへ出かけ、友人とビール片手にユンタクをすることだそうだ。知花さんの肌つやの良さは、そういう楽しみから来ているのかもしれない。
 日加間を行き来していた若いころ、沖縄やカナダの街をさっそうと歩くおしゃれな知花さんの姿は、さぞかし人々の目を引きつけたであろう。これからも元気で、いろんな話を聞かせていただきたいと願わずにいられなかった。
 (奥間ひとみ通信員)