【沖縄】沖縄市が合併誕生した1974年11月に大阪府の豊中市と「兄弟都市宣言」調印をしてから来年で50年となるのを前に、両市の深い絆を後世に継承するため記念誌の発行が企画されている。豊中市職員らが9月8日から4日間、沖縄市で精力的に関係者に取材し、資料を収集した。
両市の提携は64年、豊中市の戦没者・空爆犠牲者追悼式に合わせ、沖縄戦で亡くなった豊中市出身者の遺族に対して、コザ市が形見の代わりに霊石とハイビスカスを贈った。そのお礼として、豊中市が職員研修の受け入れを提案したという。
コザ市と呼ばれた当時、沖縄は米軍統治下。65年に研修が実現し、75年までに延べ120人が豊中市に派遣された。地方自治を研修し、いつしか「豊中学校」とも呼ばれた。やがて「兄弟都市宣言」の土台も育んだ。
沖縄市を訪れたのは元豊中市副市長で、現在NPO政策研究所理事などを務める田中逸郎さん(73)と豊中市都市活力部魅力文化創造課の林史洋課長、小嶋隆稔課長補佐。
8日にインタビュー取材を受けたのは「豊中学校」に1期生として派遣された元沖縄市建設部長の幸地光秀さん(87)。当時29歳の幸地さんは「都市計画づくりに頭を悩ましたが、基地経済依存で予算もノウハウもない。多岐にわたる行政事務など、寝ずの研修に明け暮れた」と振り返った。当初3カ月の研修期間が6カ月に延びたという。「その分、豊中市が給料を負担してくれた。豊中市には言い尽くせない恩義がある」と証言した。
毎年夏の豊中まつりに沖縄市がエイサー隊や芸能団を派遣している。田中さんのコザ、沖縄市訪問は約50回に上るという。幸地さんは「沖縄市の50周年と重なる兄弟都市宣言は特段の重みがある」と今後の多分野の交流に期待を寄せた。
現在、両市は記念式典の検討を進めている。田中さんは職員交流派遣に触れ「私たちも多文化共生など“コザ学校”からも多くのことを学んだ」と語った。
来年には豊中市から100人規模の関係者、市民を沖縄市に派遣したい、と夢を膨らませている。
(岸本健通信員)