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避難者3人犠牲、なお未解明 県人ら虐殺「検見川事件」100年 関東大震災後、排外主義が横行 事件追う島袋さん「人災と肝に銘じて」


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 1923年9月に何が起こったのか―。関東大震災は人身をはじめ、物的被害も凄惨(せいさん)を極めた。人心の混乱もとどまらず、やり場のない喪失感と怒りの矛先は流言に乗せられた。「朝鮮人や共産主義者が井戸に毒を入れた」。民衆が朝鮮人らを襲い虐殺した。被害は地方出身者にも及んだ。その被害者はおよそ6千人ともいわれる。沖縄出身者の死傷被害も分かっているだけで2件。うち1件は9月5日に千葉県で発生した検見川(けみがわ)事件だ。
 事件はなぜ起きたのか。伊江村出身で東京在住の島袋和幸さん(75)が新聞など記録を収集し、沖縄出身者を含めた日本人の虐殺被害の実態を追っている。
 島袋さんはかつての事件現場の踏査のほか、関係者を訪ねて取材を繰り返し「『関東大震災』千葉県∧検見川事件∨」と題する冊子を自費出版した。20年を超える取材の成果は旧版に続き、2022年に追加情報を加えて改定版としてまとめた。
 検見川事件の概要を振り返る。1923年9月1日の関東大震災発生から5日後、沖縄、秋田、三重の各県出身者3人が、東京方面から現在の千葉市の検見川へ避難してきた。既に関東各地に「朝鮮人が暴動を起こす」といった流言が伝播(でんぱ)していた。それを信じた自警団などに3人は朝鮮人と誤認され、虐殺された。遺体は花見川橋から東京湾に向け遺棄されたという。
 1923年10月17日付の報知新聞は犠牲者の一人を沖縄県中頭郡の儀間次郎さん(21)と報じる。流言がどのような経緯、経路で伝わったのかは不明だが、検見川周辺の青年団らでつくる自警団にも朝鮮人が来襲との流言が伝わっていた。自警団と儀間さんらとの間で、どういうやり取りがあったのかも不明だ。島袋さんは「風体や言葉のなまりで朝鮮人と誤って判断されたのだろう」と推測する。
 事件や裁判を伝える当時の新聞などによると、儀間さんら3人は自警団などによって検見川付近で捕らえられ、駐在所へ連行された。駐在所付近には既に数百人の住民が竹やりや日本刀を携えて集結。3人を殺害したという。駐在所の窓なども破壊され、現場はもはや警察官の制止もきかず、殺害されたとみられる。警視庁発行の身分証明書(現在の被災証明のようなもの)を保持していたが、それを提示しても群衆には全く効果がなく偽物とみられたという。
 報知新聞によると、加害者は地元青年らでつくる自警団員30人余り。当時の新聞が生々しく犯行の様子を記述する。儀間さんらは、こん棒や日本刀で「めちゃめちゃに惨殺」された。付近住民の後の証言では3人は針金で「手を縛り上げられていた」とも。抵抗できない3人を数々の凶器で襲ったとみられる。
 なぜ3人は誤認され、殺害されたのか。島袋さんは「言葉が分からない、よそ者を蔑視する当時の排外主義が如実に現れた」と言う。島袋さんによる2011年の現地での聞き取り調査に、震災時に3歳だった人がこう語る。「言葉の発音がおかしいんで、その当時殺気だってましたからね。青年団がなんかやっちゃったらしいんですよ」
 それにしても顔が判別できないほどの被害をなぜ受けたのか。「被害者が朝鮮人と断定できず、迷いもあった。もし日本人であった場合を考えて被害者が特定できないように証拠を隠滅する意図が働いたのではないか」と推察する。
 事件で起訴された加害者は10人とされる。3人が殺害されたにもかかわらず判決は今では考えられないほど軽い量刑で、東京日日新聞によると最も重くて懲役3年だった。
 県出身で、しかも警察官が被害に遭う事件も発生していた。島袋さんが沖縄朝日新聞を示しながら説明する。見出しは「壷屋生まれの城間巡査重傷す 亀戸自警団の暴行」とある。発生は9月1日。東京の亀戸警察署に勤務する城間巡査が自警団の10~30代の男らに重傷を負わされた。
 記事には自警団の「暴挙」とある。城間巡査は、何らかの騒ぎを起こしていた自警団員の動きを制止しようとしたようだが、自警団メンバーは偽巡査と思い違いし、犯行に及んだとみられる。城間巡査傷害事件のその後については報道もなく、島袋さんでもいまだ詳細は分かっていない。
 沖縄史研究者の比嘉春潮が著書「沖縄の歳月」に震災時における人々の混乱ぶりの一端と、自らの体験を書き残している。震災後、朝鮮人と勘違いされた比嘉は隣近所の人から詰問された末、「ええい、面倒くさい。やっとまえ」などとすごまれたという。島袋さんは「こうした雰囲気の中でよそ者蔑視の虐殺事件が各地で横行した」。
 ジャーナリストの安田浩一さんは、検見川事件を含め関東大震災で発生した虐殺が「100年前の遠い事件ではない」と言う。事件は連綿と続き、今なおインターネット上では民族やハンディがある人ら異なる他者への差別や蔑視、憎悪の発言が書き込まれる。いつ虐殺が発生してもおかしくない火種がくすぶり続けているという。
 加えて虐殺を肯定し、あたかも正当事由があったがごとき言説も流布し始めた。こうした言説が「放置されれば再び差別に基づく迫害、殺りくに発展しかねない」と懸念する。虐殺への引火材料は事欠かず「殺りくに至る萌芽(ほうが)があちこちにあり起こらないと断じられる材料はない」と言う。
 それは国、行政が向き合って調査、究明し謝罪していないことに起因する。「ヘイトクライムを許さないこと。国家が反省の姿勢とともに責任をもって宣言しないと差別は克服できない」と話した。
 震災後の1923年12月の衆議院本会議で「朝鮮人殺傷問題」について政府が見解を問われた。しかし当時の山本権兵衛首相は「熟考ノ上他日御答ヲ致ス」と事実認定を含めて答弁を避けた。
 震災から100年となった1日。松野博一官房長官は虐殺について論評せず、理由を「記録が見当たらない」とした。島袋さんは「事件は闇に葬られ、政府による調査はされていない。人災でもあったことを肝に銘じなければ震災の真の歴史を理解することはできない」。禍根を残したまま一世紀を迎えた。 (斎藤学)