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ユネスコ登録へ 心一つに/「沖縄空手の歴史」宮城篤正氏に聞く/流派の壁取り払い協力を


この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

琉球新報「ザ・沖縄空手」で2018年8月から続いた連載「沖縄空手の歴史」が今回52回で終了となる。5年間続いた連載は、明治期から現代に至る空手界の動き、エポックを膨大な資料を基につづった。執筆した元県立芸術大学学長で沖縄空手師範の宮城篤正さん(84)に連載を振り返ってもらった。

―5年にわたる連載を終えて。
「2018年7月に琉球新報社から連載企画として執筆の依頼がありました。1975年発刊の『沖縄県史』で『古武術』の項目の執筆を担当しており、それも理由にお願いしたいということでした。年齢的なこともあって一度はお断りしました。さすがの記者さんに粘ってもらって考えさせてくださいと言いましたが、あとは断れなくなっていました」
「県史は先輩方がまとめたものを勉強しながら書きましたが、その後、新たな資料が出てきたこともありました。連載は構成案として14回分ぐらいを見積もっていたんですが、やっているうちに生まれる疑問から新たな資料に当たり、どうしても書いておかないといけないということも出てきて。それで52回に。改めて資料を見直すいい機会ともなり、書かせてもらえたことに感謝しています」
―出典を見ると、細かく資料に当たられていた。
「高校時代に社会科の担当教諭から勧められたことをきっかけに新聞切り抜きをずっとやっています。1950年代でまだ新聞を取っている家庭も多くはないころ。昔はいろいろなジャンルをやっていたけど、後に専門の美術と空手に絞りました。その切り抜きも基にしました」
「学生時代から多くの先生方を訪ねて聞き取りもしていたこともあります。小林流の恩師の比嘉佑直先生がとても理解のある方でした。あのころは流派の壁が高く、ほかの流派を習いたいと言うと『もう来るな』と言われるような時代でした。剛柔流を習いたいと言うと比嘉世幸先生を紹介してもらいました。柔道をと言うと玉城盛源先生、ボクシングと言えば、ボクシング部のある高校につなげてもらったこともありました」
―宮城長順師の胸像、「手を語る会」の活動などあまり知られていないエピソードも多くあった。
「宮城先生の没後10年の1963年に建立事業があり、旧武徳殿に設置されました。武徳殿取り壊し後は紆余(うよ)曲折があって、現在はある道場に安置されています。建立運動には体協や立法院ほか政財界にも賛同が広がり、協力を得た経緯がありました。これも踏まえて、望ましい設置場所が協議によって円満に解決されてほしいと書きました」
「『手を語る会』は、87年の海邦国体での空手道を流派の壁を越えて成功させたことが発足の動機となりました。各流派・会派の中堅空手家が会員で今に続きます。表立ったことはせず、裏方に徹するとの姿勢で各種大会の支援や県外、海外からの演武依頼への対応などに当たってきました」
―最後に空手の発展に向けて望まれることを。
「空手の日の制定、沖縄空手会館の落成、県の空手振興課の設置など空手振興につながることが実現し、東京五輪での採用がありました。そして今度はユネスコの無形文化遺産登録に向けた作業が始まっています。関係者が協力し、県民こぞって空手は沖縄の文化だと心を一つにしなければなりません。そのためには空手界がより結束する必要があります。自分の流派は大事にしつつ、他の流派とも壁を取っ払い、心広く、より仲良く協力していくことが必要だと思います」