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老人ホームなど巡りライブ、体育は落第点もバスケ名将が助け…しゃかりのチアキさん 小学生で見た「E.T.」から映画に夢中、高校生でクラスを巻き込み映画作り…宮島真一さん 北谷高校(5)<セピア色の春>


老人ホームなど巡りライブ、体育は落第点もバスケ名将が助け…しゃかりのチアキさん 小学生で見た「E.T.」から映画に夢中、高校生でクラスを巻き込み映画作り…宮島真一さん 北谷高校(5)<セピア色の春> 開校間もない頃の面影を残す視聴覚室=北谷町桑江の北谷高校
この記事を書いた人 Avatar photo 琉球新報朝刊

 生まれ育った北谷町の「謝苅」の読み方をアレンジした音楽ユニット「しゃかり」のチアキ(50)は13期生。幼い頃から歌うことが好きで、高校に入ると活躍の場を広げ、実力を花開かせた。

 1972年生まれのチアキ。3歳の時に離婚した母・桐原好枝は東京へ出稼ぎに行き、家計を支えた。沖縄で一緒に暮らしたのは祖母だった。目が見えなかった祖母は歌が好き。写真のアルバムの代わりに、チアキの歌声をテープに録音し、孫の成長を感じた。小学生の頃、その歌声に感激した母にカラオケ番組への出場を勧められた。優勝の副賞は掃除機。「これで母は出稼ぎに行かなくていい」。音楽活動のきっかけとなった。

 北谷高校に入学すると注目の的だった。現代音楽部の複数のバンドから「スカウト」された。「Street Kids」というバンドに入り、1年生でボーカルを務めた。プリンセスプリンセスやSHOW―YAの楽曲を演奏し、オリジナルの曲も作った。その年すぐにコンクールに出場。沖縄、九州で優勝し、全国大会のニューライフアドベンチャー第3回全国高校生音楽祭でも優勝を果たした。副賞で小ホールながら名古屋城ホールで歌うこともできた。

 その後も高校の文化祭や体育祭の後夜祭に出演した。学校は個性的でおしゃれな人も多く、刺激に満ちていた。バイクの免許を取ってからは、老人ホームなど各所で“慰問ライブ”を開催。演歌でも何でも歌った。

 そのためか、体育は落第点だった。だが、バスケットボールの名将で体育教諭の安里幸男に呼ばれ「追走」をして、なんとか単位を取れたという。「安里先生は今でも応援してくれている」と笑う。

 卒業後は91年に坂本龍一プロジェクトに参加、93年にディアマンテスのコーラスとしてメジャーデビューした。5年間の活動後、脱退。2002年頃から活動の場を広げ、舞台などにも挑戦した。「力を合わせることの大切さを知った。大きな一歩だった」。礎を築いた高校時代を振り返った。

 チアキの現代音楽部の一つ後輩で、14期生の宮島真一(50)は「好き」を仕事にし、「シアタードーナツ・オキナワ」の代表として、地域に根ざしたコミュニティー映画館を営む。1973年生まれ、沖縄市諸見里出身。小学4年の頃に出合った「E.T.」を見て映画に夢中になった。それからは映画を見ては、学校までチラシを持って行き、友人たちに作品を紹介した。

 高校に入ると現代音楽部に入部したが、映画への愛が絶頂期を迎えた。文化祭での上映を目指し、1年のクラスメートを巻き込んで映画作りに挑戦した。

 自身は監督を務め、役者と裏方は同級生。夏休みに撮影し、琉球放送の技術スタッフだった父に教えてもらいながら編集し、音楽を付け、数分だが恋愛ものの映画に仕上げた。美術部員には看板を製作してもらい、視聴覚室で上映した。多くの人が見に来てくれた。3年でも「高校生日記」と題し、学園映画を作った。「最初で最後の経験。楽しかったね」と屈託のない笑顔を見せる。

 高校、大学を卒業し、一度はサラリーマンとなった。だが映画への熱は冷めることなく、映画の裏方やテレビなどメディア関係の仕事に携わるようになっていく。

 シアタードーナツ誕生のきっかけは9年ほど前、沖縄市観光協会による地元PR映画「ハイサイゾンビ」の上映企画に関わったことだ。エキストラの出演者を観客として呼び、飲食しながら皆で鑑賞する。企画は大成功。2015年、宮島はシアタードーナツをオープンさせた。シアタードーナツでは幕あいの時間、宮島が作品の見どころや自身の思いを来場者に伝える。「映画は人生を豊かにする。感想を共有することも豊かな時間だ」。時と場所が変わっても、映画好きの思いは今も変わらない。 (敬称略)(仲村良太)
 (火、金曜日掲載)