戦前、沖縄からカナダに移住した人たちは、多くが厳しい労働条件下で働き、明日を信じて生きてきた。貴重な歴史を知る人たちは年々減っているが、バンクーバーに住む知花仁常さん(88)は、今も元気に日々の生活を楽しんでいる。1975年に創立された「カナダ沖縄県友愛会」(現バンクーバー沖縄県友愛会)の発起人の一人として、県人社会の発展にも寄与し、周りからも人望が厚い。知花さんの移民人生を紹介する。
◇ ◇ ◇
オーダーメードのコートやスーツ、夏には白い靴に帽子を身に着け、ゲーリー・クーパーかハンフリー・ボガートを思い起こさせるような“おしゃれなオジサン”である知花さん。戦前、沖縄からカナダに移住した一世県人パイオニアは、ここバンクーバーでは知花さん1人となった。
知花さんは1917年生まれ、5人兄弟の4番目として与那城村(現うるま市)の平安座島で生まれ育つ。当時の平安座島では「出稼ぎ移民」としてシンガポールやフィリピン、ブラジルなどへ生活の糧や夢を求めてたくさんの人たちが沖縄を後にした。
知花さんもその影響を受け、35年に海外へ働きに行くことを考えた。初めは友人たちが一足先に行っていたフィリピンへ行く予定だったが、移住あっせん会社からカナダ行きを予定していた人が直前に行くことを取りやめたため、その人の代わりにカナダへ行かないかと勧められる。
カナダの予備知識はほとんど無かったが、5年前に姉のフジさんがカナダへ移住していたこともあり、カナダ行きを決めた。35年、知花さんは、今ではすっかりデートスポットとなっている横浜市の山下公園に係留してある、当時北太平洋の女王と呼ばれた豪華客船「氷川丸」に乗り、横浜から出航した。
カナダへ入国した知花さんは、バンクーバーダウンタウンから車で南へ約45分ほど行ったラドナー(LADNER)で、農業の契約移民として3年間働くことになる。給料や休みは無く、住居と食事だけの条件で契約期間3年間と聞くと、今では信じられない労働条件だが、当時はそれが普通だったそうだ。手にかまやくわを持ち、冬はまきで暖を取りながら、真夏は肌を刺すような強い日差しの中で日に10―12時間働いていると、「自分は何でこんな所まで来たんだろう。沖縄に残っていたほうが良かった」と何度も思ったようだ。
それでも歯を食いしばりながら頑張るうち農場主から信頼を受けるようになった。
(奥間ひとみ通信員)