63年ぶり卒業証書 「人生やっと完成」 ヘレン・ハツエ・イサさん(82)


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63年ぶりに卒業証書を手にしたイサさん(前列中央)。子や孫に祝福され笑顔を見せる=ロサンゼルス

 「私にとってこの卒業証書はただの紙切れではない。ずっと探してきたパズルの一片のようなもの。戦争で中断されていた私の人生が今やっと完成したような気持ち」-。
 第2次世界大戦中に米政府によって強制収容所に入れられたため、高校を卒業することができなかった日系人を対象に8月、ロサンゼルス市内で行われた卒業証書授与式に参加したヘレン・ハツエ・イサさん(82)の言葉だ。

 収容されたのは1942年。卒業式が3カ月後に迫った時期だったという。「卒業後は看護婦になりたい」という夢を膨らませていたころだった。
 「アーカンソー州のだだっ広い野原で、金網に囲まれた掘っ立て小屋での毎日。よく口にしていた言葉は、『仕方がない。我慢、我慢』。収容所を解放された後も高校卒業の資格はなく、自分の人生は大きく変わってしまった」
 いつも笑顔で、北米沖縄県人会の行事にも積極的に参加しているイサさんだが、過去の話になると自然と口は重くなる。「日系アメリカ人の間で、収容所生活が語られることは長い間なかった。刑務所から出てきたかのように、収容所の話はタブーだったから」と明かす。
 大戦中、反日感情が高まっていた米国では42年から45年まで、連邦政府による日系人隔離政策が実施され、12万人以上の日系人が国内10カ所の強制収容所に送られた。多くの日系2世の若者たちは通っていた高校を卒業することができず、収容所内の学校で教育を受けた。
 米政府は88年に日系人隔離政策を公式に謝罪し、収容者1人につき2万ドルの賠償金を支払うことを決定。2004年には、収容所生活で高校を卒業できなかった加州在住の日系人らに卒業証書を与えようという法案が通過し、これまでに400人以上が収容される前に通っていた高校の卒業証書を手にすることができた。
 ロサンゼルスの大学講堂で行われた授与式には、約160人の「新卒業生」が参加。イサさんもレイとガウンをまとって出席した。卒業生の中にはつえや車いすで壇上に上がる人もいた。
 イサさんは「63年ぶりに念願の卒業証書を手にした時、これでやっと戦争によって奪われた学生生活の証しを取り戻したという実感が込み上げてきた」とかみしめるように語った。そして、「子供たちや孫に囲まれてたくさんの記念写真を撮った。みんなに祝福されて最高に幸せ。長生きしていればいいこともたくさんある。来年のウチナーンチュ大会には、アルバムを持っていってみんなに見せたい。また楽しみが1つ増えたね」と話した。
 (平安名純代通信員)