「ロールモデルは一つじゃない」 琉球新報政治部長 島洋子さん DEAR WOMAN(1)

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 家事、育児、仕事と働く女性の悩みはつきません。世間は「女性活躍」と言うけれど、「活躍」しようと頑張ってみると、新たな悩みが生まれてぐるぐるになっちゃったり。ロールモデルもまだまだ少なく、みんな手探りで毎日をやり過ごしているのではないでしょうか。

 道を切り開いてきた女性たちも私たちと同じように迷ったり、悩んだりしてきました。そんな先輩たちにインタビューする「DEAR WOMAN」。第1回目は「男社会」と言われるマスコミ業界で、子育てをしながら働き、今年4月、琉球新報社で女性初の政治部長に就任した島洋子さん(49)。「仕事と子育て、どちらも中途半端にしていると思って、悶々とした時間が長く続いた」という島さんが後輩たちに伝えたいことは-。子育てと仕事の両立に悩む記者が聞きました。

「ロールモデルがいなかった」



「ずっと走り続けることはできない」と話す島洋子さん

―入社したのはいつですか?

 入社したのは1991年。初めて女性を複数人採用した年でした。それまでは女性を毎年採用しているわけではなく、採用しても1人。当時は女性社員は少なかったけど、団結していました。少数派の強さがありました。私の入社前だけど、紙面で女性記者座談会をしていて、そこでセクハラの話とかしているわけ。のびのびした会社だなと思いました。

―結婚、出産がけっこう早いですよね。

 入社2年目で結婚。すぐに娘を出産しました。(琉球新報は)私の入社前年に育休中は給与の4割を補償するようになっていた。これは全国の新聞社でも初めてで、国の制度ももちろんありませんでした。私はその制度を使った育休取得の2人目。2番手の気楽さはあったよね。

 ただ、旧姓使用に対する抵抗は大きかったです。「記者歴も浅いんだから、名前変わっても問題ないだろ」と社外の人に言われたり。

 記者の先輩には結婚、出産した人はいたけど、その人たちが続々他部署に行ってしまって、子育てをしながら記者をし続けるロールモデルがいませんでした。

 外の世界にしかモデルがいなかった。だからいろんな女の人と模合したり、話を聞いてみたりしました。

子どもがいるからこそ



―あれもこれもしたいのに、子育て中だと無理が利かない。頭では「今は子どもが優先」と思っていてもどこかで焦りみたいなものがあります。島さんはどうでしたか。

 私も悶々とした時間が長く続きました。

 入社2年目と言えば同期は支局勤務。5人の同期が支局などでのびのび仕事をしているのに、私は家で子どもといる。社会から取り残されたような気持ちでした。育休が明けて仕事に復帰してもみんなと同じようにいつでも飲みに行けるわけでもない。

 独身の時はすべて自分の時間だけど、子育てしていると自分ではどうしようもできないことが多い。仕事が忙しいときに限って子どもは風邪をひく(笑)

 そんなころ、元沖縄タイムスの山城紀子さんにも相談しました。紀子さんからは「確かに男性は30代でいろんな部署でいろんな経験を積み、この時期すごく伸びる。でも今のあなたは蓄積の時期。動けない分、本を読んで蓄積しなさい」と言われました。

 (元国連難民高等弁務官の)緒方貞子さんにインタビューする機会があったのですが、そのときに最後に「個人的な質問、いいですか?」って自分の悩みを打ち明けたこともあります。緒方さんは「先は長いから焦らずに今できることを一つ一つやりなさい」とおっしゃっていました。ロールモデルは自分で探さないと見つからない。

―記者としてのキャリアを形成する前に出産してしまった、みたいなことは。私は警察担当も政治も基地も経済も担当したことがない。社会部や運動部などいわゆる「軟派」と言われる部署しか経験していない。そこが不安です。

 私もサツ(警察担当)は経験していないし、きついことはしていない。

 そこはいい仲間たちに支えられているから子育てが終わったら恩返しすればいいと割り切りました。

 新聞社の花形は基地、政治。私が子育て中の頃、少し上の先輩たちがその分野で華々しく活躍していました。それを横目で見ながら私は市井の人の営みからニュースを出したいと思いました。子どもがいる記者が少ないからこそ、子どもがいることが私の強み。だったら、子どもと関係の深い教育担当をしようと。そこから(いじめや不登校など子どもたちを取り巻く問題について子どもの目線からルポをした)「君はひとりじゃない~子どもたちの現場から」という連載が生まれました。これはすごい反響で、朝から電話が鳴りっぱなし。これで基地以外でもいけると確信しました。


電話で記者に原稿や取材についての指示を出す島洋子さん=那覇市天久の琉球新報社

39歳でやってきた転機



―基地以外を自分の専門、強みにしようと思っていた島さんが、基地報道に関わるようになったターニングポイントは何だったのですか。

 39歳で初めて中部支社に勤務しました。担当は普天間基地を抱える宜野湾市。市内を車で走っていると、F15戦闘機とか騒音がひどい軍用機が離発着する時に子どもが耳をふさいでいる光景を目にするのね。「こんな小さい子にこんな思いさせて」と感じました。

 一方で「沖縄はお金をもらっている」という言われ方も気になっていました。私たちは米軍基地があることによって事故のリスク、事件のリスク、騒音などの環境被害を被っています。そして基地の被害があるから沖縄は国から予算をたくさんもらっていると私たち自身が思っています。しかし本当にリスクに見合ったお金をもらっている?って。もしかしたらはした金をもらって喜んでいないか?って。

 そんな疑問を持ったまま本社に戻り、経済部に配属となりました。そこで沖縄経済の中に占める米軍基地の経済効果を取材した「ひずみの構造―基地と沖縄経済」という連載が生まれました。

―安全保障、防衛という大きな視点からではなく、お金、リスクに見合っている?という“けちくさい”生活者の視点が女性だなという感じがします。

 基地があることで女性の方が負担感を感じている。私も子どもの頃から「米軍人が乗っている車両に引きずり込まれたら終わり」と言われていました。米軍関係者による性犯罪の多さが社会背景にありました。女性の方が基地があることのリスクを切実に感じています。だからリスクに見合うお金をもらっているのかという疑問が生まれたのだと思います。

 あれから6年たって、沖縄の選挙で基地か経済かを問われることはなくなりました。「or」じゃなくなった。基地が経済発展の阻害要因であることが明らかになったから。


菅義偉官房長官にインタビューする島洋子さん(右)=2015年3月31日、衆院議員会館

―東京報道部はどうでしたか。東京での政治取材はまさに男社会の王道のような気がします。

 共同通信加盟社40数社で女性の報道部長は2~3人しかいませんでした。

 報道部長の仕事って他社とのつきあいとか情報交換というのもあります。ほかの女性たちもそうだけど、マイノリティーであることに慣れているので、男の人のコミュニティーに入ることには慣れています。新聞の世界は人権、平等が好きだし、自分たちもそうありたいと思っている人が多いので、やりやすい面もあったのだと思います。取材は沖縄と同じでした。

焦ることはない



―仕事の楽しさを知っている。だからこそ苦しい。やりたいのにやれないことが。期待に応えられないことも。もがきながら仕事をしている女性たちにアドバイスは。

 私もとっても焦っていました。昇進は同期より遅いし。でも今考えると焦ることはないんだよ。先は長いし、ずっと走り続けることはできないから。子どもが2、3歳の間は無理することはない。

 子育てしながら記者職を続けることは難しい。それができたのは会社が優しかったのもあるし、両親や夫、きょうだいの支えもあったから。条件は人それぞれ。私ができたから誰でもできるわけではない。ロールモデルは一つじゃない。



〈プロフィル〉

 島 洋子(しま・ようこ)琉球新報社編集局政治部長。1967年、沖縄県生まれ。1991年琉球新報社入社。政経部、社会部、中部支社宜野湾市担当、経済部、政治部、東京報道部長などを経て現職。米軍基地が沖縄経済の発展を阻害している側面を明らかにした連載「ひずみの構造―基地と沖縄経済」で、2011年「平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞」を受賞。



~ 聞き手 ~

 玉城江梨子(たまき・えりこ) 琉球新報style編集部。今年3月までは編集局社会部の記者として医療・福祉や沖縄戦などをテーマに取材。

 

 



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