豚とイモの深~い関係 マブイロードを歩くVol.8

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 ニワトリが先か卵が先かという言葉がありますが、沖縄では豚とサツマイモがその関係にあてはまります。

 一見、関連性がないように思える両者ですが、歴史をひもとくと、イモなくして豚肉は普及しなかったことがわかります。

 今回はその意外な謎に迫ります。
 

 

 沖縄の家庭料理を代表するチャンプルーや宮廷料理の花形であるラフテー、さらにはソーキ汁やテビチ汁にいたるまで、豚肉は琉球料理のエース的食材です。

 その豚肉が庶民の間に普及するのは18世紀半ばとされていますが、そもそも豚が沖縄に伝来したのは14世紀。つまり、早くから伝わっていたにもかかわらず、豚肉が庶民の食卓に上るまでに数百年もかかったことになります。

 理由は養豚技術が未熟で、豚の生産量が限られていたため。当時はなんと豚肉よりも牛肉がメインだったのです。
 


豚肉王国は1日にしてならず


豚はかつてフールという便所で飼育されていた。帰宅が遅くなると邪気払いで豚を鳴かせたという

 その豚を大量に増産しなければならない出来事が発生します。琉球の新国王任命の際には中国から冊封使(さっぷうし)が訪れます。これは国家の威信をかけたビッグイベント。滞在中は使節団を豪勢な料理でもてなすことになります。その賓客を饗応(きょうおう)するために豚肉が必要になったのです。

 ちなみに冊封使一行の人数は300~500名。滞在期間は最長250日にも及びました。その間、毎晩のように宴会が催されますから、食材を揃えるだけでも至難の業です。

 ものの本によると1日に消費する豚は約20頭。250日の滞在では5千頭にのぼります。

 そんな経緯から18世紀初頭、王府は豚の増産に乗り出します。各村に養豚を強制的に励行させますが、そこで活躍したのがサツマイモ(沖縄ではイモ・ンムという。以下、イモ)でした。イモはすでに1605年に野国総管(のぐにそうかん)によって中国から移入され、儀間真常(ぎましんじょう)が各地に広めましたが、この頃には年2回収穫できる栽培法が確立し、庶民の主食となっていました。

 このイモやイモの茎、葉っぱなどが豚の飼料になったのです。そういう経緯を経て、豚は飛躍的に増産が可能になり、やがて豚肉王国と呼ばれるほど、庶民の食生活にも欠かせない食材となっていくのです。
 

豚は鳴き声までパワーあり

 ところで、豚にはマジムンといわれる魔物や邪気を撃退する「霊力」があることをご存じですか?

 沖縄では昔、夜間に外出したときは知らないうちにマジムンや死霊に取り憑かれてしまうと信じられていました。

 そこで帰宅すると家の中には入らず、まず豚小屋に立ち寄り、寝ている豚を起こして「グー」と泣かせてから家に入ったというのです。

 豚の鳴き声にはマジムンを追い払うパワーがあると考えられ、地域によっては、次のようなまじないもあったとのこと。
 


イモを食べながら悪知恵をめぐらすマジムンたち

「夜、マジムン(妖怪)に出会うと、男はふんどしを頭に巻いて帰るとよい。そして、家に帰るとフール(豚小屋)をまわり、豚を起こしてから家の中に入る」(『沖縄の迷信大全集1041』・むぎ社)

 ここまでくると、なにやらマジムンより人間の方がよほど怪しく思えてきますが、昔の人はそれほど豚という生き物を信頼していたのですね。

 というわけで悪の軍団たちも豚にはご用心。くれぐれも邪険に扱わないように!
 


文・仲村清司
写真・武安弘毅

イモが琉球の人々を飢饉から救ったんだ




     


日本を救った琉球発のイモ

 野国総管(生没年不明)は甘藷を伝来させた人物として、沖縄では広く知られています。進貢船の役人だった彼は中国から持ち帰ったイモの苗を出身地の北谷間切野国村(現在の嘉手納町)に植え、栽培に着手します。


中国からイモを伝来させた野国総管(道の駅かでな)

 その噂を聞きつけ、栽培法を伝授されたのが儀間真常(1557~1644)です。当時は琉球各地で飢饉が頻発し、救荒食物の開発は急務でした。儀間はイモの普及・栽培に尽力を注ぎます。台風や干ばつに強いイモはたちまち琉球全土で栽培され、農民たちを飢えから救う主食として定着しました。

 二人の功績は後に江戸の幕臣、青木昆陽(あおきこんよう)(1698~1769)を介して日本全国に普及します。琉球発のイモが多くの人命を救うことになったのです。
 





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