首里城焼失 その時、記者は 衝撃、悲しみ 乗り越えて


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 10月31日未明に発生した首里城火災は正殿など主要7棟を焼失した。沖縄戦で破壊され、沖縄の復興とともに復元の道を歩んだ首里城。沖縄の象徴、アイデンティティー、誇り、遺産、観光資源…とさまざまな表情を見せてきた首里城。琉球新報は火災などを担当する社会部だけでなく、社を挙げて取材態勢を敷いた。デジタル編集の担当はいち早くインターネットで火災状況を伝え続けた。記者の取材や紙面制作の様子をもとに、衝撃の首里城焼失を振り返る。

跳び起きる

 午前3時20分、自宅にいた社会部警察担当の照屋大哲の携帯電話が鳴った。画面を見ると読者事業局販売第1部部長の関戸塩の名前があった。普段はめったにかかってこない関戸からの電話に「ただごとではないな」と直感した。

 「城西販売店の宮里清店主から首里城が燃えてると連絡があった。早く来てくれ」。関戸からの電話に照屋は事態がのみ込めず生返事で「分かりました」と答えた。すぐに那覇市消防局へ確認した。消防職員は慌てた様子で「首里城で火災が起きています」と信じがたい言葉を返してきた。照屋は「早く現場にいかなければ」と急いで着替えたが、ボタンを留める手は震えていた。

 同22分、経済部記者の沖田有吾は帰宅途中、安里交差点を首里方面に向かう消防車と救急車を見つけ、那覇市消防局の自動音声ガイダンスに電話、社会部警察担当キャップ梅田正覚にラインをした。「当蔵町3丁目付近で建物火災。消防と救急が向かった」。大きな火災と思わず、そのまま自宅に帰り床に着く直前の3時34分に梅田から返信があった。「首里城燃えてるとか」。眠れるわけもなく、着替えて自宅から自転車で現場へ向かった。

 同28分、梅田の携帯電話が鳴り、照屋から「首里城が燃えている」と興奮気味の報告を受けた。梅田はすぐ現場へ向かうよう指示した。スマートフォンでツイッターの投稿を調べると、首里城が炎上している写真や動画がいくつも投稿されていた。「これは本当なのか」と思いながらも警察担当のグループLINE(ライン)で「俺も向かう」と連絡した。自宅は首里城から南西に約4キロ以上離れているが、外に出ると焦げた臭いが漂っていた。

 同44分、デジタル編集の問山栄恵の携帯電話が2回鳴り、切れた。寝付けず自宅でボーと録画したテレビ番組を見ていた時だった。着信者を確認すると梅田からだった。「米軍ヘリがまた墜落したのか…」。不安が頭をよぎった。折り返したがつながらず、同45分に梅田から電話が入る。「首里城正殿が火災です。電子版速報を出します」と伝えられた。現場にいない問山は大きな火災だと考えられず、思わず「ぼやか」と聞き返してしまったが、梅田はすぐに否定した。

 同47分、警察担当記者高辻浩之の枕の上に置いた携帯電話が鳴った。2分ほどで浦添市の自宅を飛び出すと、バイクに乗り首里方面に向かった。顔を上げると那覇市の空が赤く染まっていた。「ただごとじゃない」。身震いがした。

消防への通報から1時間以上が経過し、激しい炎を上げて燃える首里城正殿=10月31日午前3時57分

 「大騒ぎしてぼや程度だったらどうしよう」。梅田は編集局の一斉メールで首里城火災を報告するかちゅうちょしていたが、同3時56分に「首里城で火災発生。正殿が燃えてます」と送信した。「うそであってくれ」と祈る気持ちで現場に着くと、目の前で正殿が燃えていた。消防は消火活動に励み、燃え上がる首里城を前に集まった人は立ちすくみ、泣いている人もいた。

伝えなければ

 梅田は写真や動画を撮影し、ウェブ速報用の原稿を同58分にメールで送信。社員から電話が殺到した。正殿を見渡せる場所に移動するため、首里在住の社会部デスク久場安志の案内で首里城近くの高台に移動した。そこで正殿が崩れ落ちる様を目撃した。「息の長い取材になるな」。覚悟を決めた。

 午前4時ごろ、守礼門付近に着いた写真映像部の大城直也は近くのアパートから燃え上がる首里城にカメラを向けた。「うそだろ」と思いながらシャッターを切り続けた。同20分ごろ、スマホで火災現場を撮影していた30代男性に呼び止められ「でーじなっている。カメラマンさん、大変だと思うが、たくさん写真を撮って伝えてほしい」と訴えられ、少し冷静になった。

 同4時2分、現場を見渡せる場所を探していた照屋はある建物の屋上に行き着いた。正殿が炎に包まれているのがはっきりと見えた。レントゲン写真のように炎の中に正殿の骨組みが浮かび上がっていた。必死にカメラのシャッターを切り続けたが、紙面に掲載される写真は1枚も撮れなかった。隣にいた男性が「見るも無残に…」とうつむいた。

 同10分、高辻は龍潭(りゅうたん)に着いた。燃えさかる炎で池の水面はライトアップされているかのように明るい。惨状を目の当たりにし顔を赤く染め、ぼうぜんと立ち尽くす人たちが池の周辺を埋めた。ただただ、ため息だけが漏れ聞こえた。近くに住む阿波連元尚さん(43)は「3時ごろに来た。当初正殿は燃えていないように見えた。しばらくして、見る見るうちに火が大きくなった。一緒に沖縄の伝統までが燃えているようだ」と虚脱した表情で記者に語った。

燃えさかる首里城。風にあおられて火の粉が舞い、警察が避難をアナウンス=10月31日午前4時12分、首里崎山町から

 同22分、写真映像部の又吉康秀は首里当蔵町にいた。県立芸大前の人混みの隙間から正殿を撮影した。県立芸大で学生時代を過ごし、当たり前のように見ていた首里城が燃える姿を目の当たりにして動揺した。県立芸大の運動場から風向きを確認し、小型無人機(ドローン)で燃える首里城を撮影した。付近を警戒中の警察官に注意され小型無人機を下ろし、映像を本社に送信した。

 同18分、問山は火災発生の一報を伝える数行の記事とともに激しく燃え上がる首里城の写真を琉球新報のHP(ホームページ)にアップした。記事はヤフーニュースやスマートニュース、ラインなどに一斉に配信された。首里城火災に関する記事はNHKに続き、ネット上を駆け巡った。

 その後も問山はメールやグループラインで流れた現場記者からの写真や映像、メモを基にHPを更新した。一時、現場からの情報が途絶え、いらだちが募った。記者に電話すると、現場の混乱ぶりが伝わってきた。正確な多くの情報をできるだけ早く伝えたい、その思いで夢中だった。火災の最新状況を伝える記事の差し替えは約11時間後の午後1時半の鎮火まで続いた。

最後の嗚咽

 午前4時24分、高辻が首里城沿いを金城町方面に向かうと、赤い火の粉が舞い、道や車の上には灰や手のひらサイズの炭が音を立てて落ちてきていた。消防は住宅への延焼を食い止めようとホースを上に向け放水を行い「火の粉が飛んでいる。窓を閉め安全を確保してほしい」とマイクで呼び掛けていた。記者の前にも真っ黒な木片がいくつも降ってきた。火の粉がパチパチと飛び交い沖縄戦を題材にした映画の一場面のようだった。

 同28分、社会部記者の池田哲平は「どういう取材が必要か。現場の配置はどうなっているのか」。考えを巡らせながら現場に到着した。現場はすでに規制が始まっており、近寄れたのは首里公民館付近だった。走って龍潭方面に移動した。県立芸大付近に到着し、カメラを首里城付近に向けると「パン」と破裂音が響いた。同時に首里城の屋根がゆっくりと崩れ落ちていった。住民から聞こえてくるのは悲鳴にも似た声。空高く上がった白煙とともに火の粉が南西方向へ舞っていた。龍潭越しにカメラを向けると水面はオレンジ色に染まっていた。「夢であってほしい」。そう思いながら夢中でシャッターを切った。

 同29分、照屋は再度、那覇市消防局へ確認の電話をし、通報時間やけが人なしの情報を得てほっとした。ちょうど同じころ、正殿の屋根が崩落し始めた。間もなく「ドン」というごう音が一帯に響いた。

 同じ音を写真映像部のジャン松元も聞いた。正殿は数分で崩れ落ち、ファインダーの中で大きく立ちあがった黄色い火柱はやがて夜空を真っ赤に染め、まるで首里城の最後の嗚咽(おえつ)が聞こえるようだった。

屋根が焼け落ちた正殿=10月31日午前4時34分

 午前5時すぎ、県警は火の拡大に合わせ警備の警戒線を広げた。琉球新報の記者は規制前に首里城周辺に入っていたため、記者が規制線の中から出ようとすると「下がれ、入れない」などと正反対の指示をする若い警察官もいた。大火災発生で広い首里城公園内は混乱していた。

号外

 午前5時4分、デジタル編集の田吹遥子は悲しく困惑した気持ちでパソコンに向かっていた。「時折木材が崩れ落ちるような大きな音が聞こえます」。高辻が説明を付けて現場から送ってきた動画を見て「つらくてもしっかり伝えないといけない」と思い直し、琉球新報の公式ツイッターでツイートした。

懸命の消火活動=10月31日午前5時24分

 同30分、本社には現場にいる記者から続々と情報が入った。「骨組みが焼け落ちた」「県警が周辺一帯の住民に避難を呼び掛けている」「すすが降ってくる」。文化部の宮城久緒が多方面からの情報をまとめた。宮城は現場の記者から届いたラインやメールの情報を整理しながら、首里城から炎が吹き出るすさまじい現場写真や描写に「まじか」「ひどい」と独り言が止まらなかった。まとめると100行になったが、社会部デスクの久場と一緒に半分の50行程度に削った。

 同50分、社会部の謝花史哲は首里城南側の崎山町にいた。高い外壁があるとはいえ住宅街は目と鼻の先だった。炎は外壁より高く燃え上がり火の粉が飛び散っていた。規制線の近くにいた警察官に話しかけた。「火の粉が外壁を越えている。この辺一帯延焼するかもしれない」。若い男性警察官の声はうわずっていた。「このまま燃え続けたら…」。住宅街への延焼という最悪の事態が頭をよぎった。

北殿も延焼=10月31日午前5時46分
正殿が崩れ落ち、激しく燃える北殿を見つめる近隣住民=10月31日午前5時54分、龍潭から
夜明けの空にもくもくと煙を上げ、炎上する首里城=10月31日午前6時15分

 午前6時すぎ、社会部の安里洋輔は龍潭のほとりにいた。「ああ、何もかも燃えてしまった」。首里崎山町で生まれ育ったという60代の男性は力なくつぶやいた。男性の視線の先には炎に包まれる首里城。火勢は弱まりつつあったが、あかつきの空を赤く染めていた。「首里城行ったことないんだよね」「えっ、おれも」。龍潭にいた10代とおぼしき男性2人組の会話が耳に入った。2人のうち1人は、首里城近くの地域で生まれ育ったが、城内に入ったことは一度もないという。「こんなことになるなら行っておけばよかった」。日常の風景になっていた首里城。男性の言葉が、地元の人々にとっての存在の大きさを示しているようだった。

 午前6時19分、首里出身の北部支社報道部吉田早希は、同報道部長島袋貞治の指示で名護市から那覇に向かった。「けがした人もいるのか。実家は無事だろうか」と緊張で手が冷たくなった。

守礼門近くの建物から首里城にカメラを向ける報道陣ら=10月31日午前6時27分
首里城をじっと眺める近隣住民や集まった報道陣ら=10月31日午前6時42分

 午前6時45分ごろ、東京支社報道部の知念征尚は文部科学省に着いた。文化庁の担当者をつかまえたが「状況を確認中」とだけ。あまりのけんまくにそれ以上質問を重ねるのもはばかられた。担当課内のテレビに目を向けると、炎上する首里城が目に入った。「この後どう取材を進めるべきか」。頭が真っ白になった。

 午前7時、那覇市天久の制作センターで号外の印刷が始まった。刷り上がった号外が那覇市泉崎の本社に届き、広げた宮城。首里城が焼失したという悪夢のようなことが「本当のことなんだ」と実感に変わった。

激しく炎上し正殿(中央)などが焼失した首里城=10月31日午前6時55分、那覇市首里(小型無人機で撮影)

緊急会議

 午前7時ごろ、政治部の明真南斗は県庁幹部に電話した。県幹部は早口で「県民のアイデンティティーのシンボル。ショックだ」と話し、緊急会議を開くため登庁を急いでいると述べた。

 同じころ、首里在住の経済部中村優希は首里高校の校門前で下地正樹教頭に話を聞いていた。下地教頭は「ショックを受けている。学校には登校時間について問い合わせの電話がひっきりなしだ」と肩を落とした。観光担当の中村はその後、観光への影響を取材するため県庁へ向かった。

 同30分ごろ、写真映像部長の外間崇のもとには全国各メディアから写真の提供を依頼する電話がひっきりなしにかかる。現場から次々と送られる写真に現実を見せつけられ、手が震える。

 同55分、首里城が一望できる琉球新報城西販売店前では配られた号外に人だかりができていた。

首里城の火災を報じる最初の琉球新報号外を手にする県民。出勤途中だが、食い入るように読み込む人が多かった。2度目と合わせ計4万5千部を発行した=10月31日午前8時すぎ、那覇市久茂地のモノレール県庁前駅前

 午前8時すぎ、文化部の古堅一樹は首里城復元に長年携わってきた琉球大名誉教授の高良倉吉さんの那覇市内の自宅を訪れた。午前3時すぎに知人からの連絡で首里城火災を知った高良さんは、自宅2階の窓から首里城が燃える赤い炎を見た。「琉球独自の歴史の象徴が失われていく」と声を落とす高良さんだが「建て直すことは可能だ」との思いを語った。

火災後1回目の公式会見。那覇市消防局の言葉に集中する梅田正覚警察担当キャップ(左)=10月31日午前8時ごろ、那覇市の首里城守礼門前

 同8時半ごろ、明は県庁6階にいた。県三役室には続々と関連部局長が入った。後を追うように資料を抱えた職員が駆け込んだ。三役室の前には県の対応を取材しようと報道陣が詰め掛けた。見慣れない顔もいたが、火災を受け早朝の飛行機で沖縄に乗り込んだ記者だと分かった。県内にとどまらず、関心が高いことを実感した。

 午前9時、昼に2度目の号外を出すことを決定。作業が始まった。

 同9時半、社会部の高田佳典は現場で、福岡県で勤務する全国紙の記者と出くわした。西日本新聞の記者である高田は1年間の記者交換制度で琉球新報に所属している。「朝イチの飛行機で来ました。応援の記者が続々向かっています」と語る全国紙記者。首里城の火災は全国的にみても大惨事なのだと痛感した。

愛されていた城

 午前9時38分、社会部フリーキャップの仲村良太は社内で、現場から送られてきた情報を基に号外用のドキュメントをまとめながら、翌日朝刊に掲載する社会面の出稿案をまとめ一斉メールを送信した。「県民にとって首里城はどういう存在だったのか」と思い浮かべながら、現場の状況や市民の表情がどうすれば伝わるか。可能な限り読者に伝えようと盛り込んだ。

 同50分、社会部の上里あやめは11月3日に開催予定の琉球王朝祭り首里を主催する首里振興会が緊急会議を開いていると聞き、那覇市役所首里支所に駆け込んだ。到着すると、古式行列で使用する予定だった着物、鉢巻き、旗頭などがまとめられていた。衣装を担当する平良栄子さんがスーツケースにしまっていた着物を取り出した。平良さんは「これから髪結いの先生たちにも祭りの中止を連絡しないといけない」とため息をついた。

「琉球王朝祭り首里」の古式行列で三司官役と摂政役が着る予定だった衣装を整理する首里振興会の平良栄子さん(左)と桑江良勝さん=10月31日、同会事務局

 正午ごろ、NIE推進室の大橋弘基は11月3日付の新報小中学生新聞「りゅうPON!」の記事を差し替え、首里城火災の原稿を突っ込んだ。

 午後0時半、泉崎の本社1階に2回目の号外が着いた。社員総出で号外の束を抱え、各地で配った。那覇市おもろまちでは大橋の配る号外をほとんどの人が受け取り、すぐに目を通した。「きょうは鎮魂の日だね」「父親が修復に関わった。悲しいよ」と声を掛けられ、首里城が県民に愛されていたと実感した。

 夕方、首里出身の社会部デスクの座波幸代は朝刊紙面に掲載するための原稿をチェックしていた。パソコンに向かいながら火災の光景が何度かフラッシュバックして、なぜだか分からないが何度も涙が出そうになった。その時、現場記者から送られてきた原稿に城西小児童の声があった。「落ち込んで何も考えられなかった。登下校で首里城が見えないのは悲しい」。涙が止まらなくなった。

 燃え落ち、無残な姿となった首里城焼失で多くの県民が大切な人を亡くしたように泣き崩れ、悲しみに暮れた。それは同時に首里城が琉球王国の政治、文化、外交の中心というだけでなく、ウチナーンチュにとって誇りであり、象徴であり、アイデンティティーのよりどころだったと気付かされたからだ。

 琉球新報の記者たちは人々の喪失感に寄り添いながらこの思いに応えるため、首里城再建に向けた課題や人々の取り組みを取材し、情報を届ける思いを新たにした。

編集現場の動き
再建へ 県民思い発信

 沖縄現代史に刻まれる大ニュースを刻明に記録し、紙面にどんなメッセージを込めるか。沖縄の新聞の底力が試される首里城焼失という事態を報じた、編集局内や論説委員会の動きを振り返る。

   ◇   ◇

 出火から約1時間たった10月31日午前3時半すぎ、編集局長の松元剛に編集担当取締役の潮平芳和から電話が入った。気付くのが数分遅れた松元は、娘から、首里城が燃え上がるツイッター上の中継映像を見せられ、跳び起きた。

 自宅近くの那覇市繁多川の高台に走ると、約1キロ離れた首里城から噴き出す火柱と宙を舞う無数の火の粉が目に入った。編集局次長の島洋子、与那嶺明彦や各部の部長らに連絡し、号外発行を指示した。

 同じ場所でぼうぜんと火災を見詰めていた男性(86)は「沖縄戦を思い出す。山原(やんばる)に逃れた際、米兵が火炎放射器で家屋を焼き尽くし、身動きできないほど怖かった。復元された首里城が燃え、ウチナーンチュの魂が焼かれている思いだ」と声を震わせた。松元は「首里城火災と沖縄戦はつながっている。その視点を忘れてはいけない」と感じた。

 島、与那嶺の両次長は午前5時までに出社し、裏表の号外発行を指揮した。島は泉崎の社屋7階から、首里城の火が東の空を赤く染めている光景に何度も見入り、その度に涙腺が緩んだ。整理グループのデスク、社会部デスクらも続々と出社した。火災現場で午前4時過ぎから動画撮影をしていたデザイングループの相弓子も社で地図づくりに取りかかった。

 燃え上がる正殿など写真6枚を据えた号外1万5千部は午前7時、印刷が始まった。間髪入れず、焼失の概要が明らかになった時点でこの日2度目の号外を出すことを想定し、情報を集めた。

 午前8時、論説委員長の名城知二朗は、この日の社説を執筆する論説委員兼経済部長の与那嶺松一郎に連絡し、「再建に向けた機運を高めるような論調にしよう」と申し合わせた。

 午前9時、松元は各部のデスク陣約10人を招集し、「数十年に一度あるかないかの大事だ。2度目の号外は4ページ。臨時夕刊を出す感覚で取り組んでほしい」と指示した。

朝から繰り返し編集会議を開き、現場の報告やテレビ中継を確認して、「首里城焼失」で2回目の号外を作成する編集局=10月31日午前11時ごろ

 午前11時40分すぎ、ドキュメント、年表なども組み入れた号外3万部を印刷する輪転機が回った。

 正午、午後1時に断続的に開いた紙面会議で翌朝刊の出稿メニューを調整し、「沖縄のシンボルを失った喪失感を乗り越え、早期再建を願う県民の思いをすくい上げる紙面を目指す」ことを確認した。

 5ページを増やし、1面から終面がつながる特別編成と1面への社説掲載も決めた。沖縄戦と首里城に詳しい社会部長の小那覇安剛が「特別評論」を執筆することも決まった。

 11月1日付朝刊は関連記事が15ページに掲載され、総力を挙げた展開となった。社説「県民の力合わせて再建を」特別評論「私たちは立ち上がる」など紙面の全体的なトーンを巡り、読者や識者から「苦境を克服してきたウチナーンチュの気概が伝わる」「打ちひしがれずに目指すべき方向性を示した」などの反響が寄せられた。

 翌2日付朝刊からは、首里城を失った衝撃と再建を望む県民の声を主要面に3人ずつ掲載する「ひやみかせ 首里城再建」をスタートさせた。多くの県民が二つ返事で取材に応じてくれ、取材に当たる一線記者たちも「再建に向けた県民の熱い思い」に刺激を受けている。