今帰仁村仲尾次に住む城間好さん(90)は戦時中、伊江島で進められていた飛行場の建設作業に動員されました。伊江島で厳しい労働に耐えて自宅に戻ると、今度は八重岳で兵隊の食事を作るように命令されました。八重岳にいる時期から戦争はどんどん激しくなり、城間さんたちは山の中を逃げることになりました。城間さんの戦争体験を今帰仁中2年の玉城夏穂さん(14)と與那嶺壮君(14)が聞きました。
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1944年の7月か8月ごろに、軍から伊江島の飛行場造りに行くように命じられました。当時は年齢も性別も関係なく、呼ばれたら絶対に行かなければならなかったのです。私が伊江島で作業をしたのは15日間ぐらいです。朝早くから夕方まで働いても給料はありませんでした。風呂に入ることもできず、芋を食べながら暮らしていました。寝泊まりしていた場所はヤギ小屋でした。トイレなんかはもちろんありません。私たちはまだいい方で、お墓で寝ている人もいました。
《伊江島の飛行場造りの後、八重岳で日本軍の炊事作業に動員された城間さんは「10・10空襲」に向かう米軍の飛行機を目撃しました》
我慢して伊江島で働いて、当時住んでいた本部町伊豆味の家に帰ってきました。また飛行場造りに呼ばれたら嫌だなと思っていたら、日本軍がやってきて八重岳で炊事の仕事をやりなさいと言われました。命令を断ることは許されなかったので、従うことにしました。
炊事の仕事をしている時に、たくさんの飛行機が飛んでいるのを見ました。電話もないし情報が全く入ってこないので、飛行機が何のために飛んでいるのか分かりませんでした。まさか本部町渡久地が空襲されているとは思わなかったんです。後から渡久地が焼けていることを知って、戦争が来たんだと怖くなりました。飛行機を見ると爆弾を落とされないかと怖くなって、夜も落ち着いて眠れませんでした。
※続きは11月28日付紙面をご覧ください。