那覇市に住む金城幸子さん(88)は県立第二高等女学校(二高女)4年生で編成された「白梅学徒隊」の一員として戦争を体験しました。東風平村(現八重瀬町)の野戦病院で負傷兵の看護にあたり、1945年6月に解散命令を受けた後は父と共に避難を続けました。金城さんの過酷な体験を、那覇市立古蔵中3年の崎山和夏さん(15)と与那覇澪史君(15)が聞きました。
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《45年2月、日本軍の求めにより県立二高女の4年生への看護教育が始まりました。3月には第24師団野戦病院衛生看護教育隊への入隊が決まり、東風平国民学校で看護教育を受けることになりました。同じように動員された積徳高等女学校の学徒と共に、泊まり込みで厳しい教育を受けました》
教室で班を分けて第1内務班、第2内務班…とあった。朝は起床ラッパが鳴って点呼がある。不寝番という当番があり、その人たちに10分前になったら起こしてねと言っておいて、蚊帳の中で身支度してさっと出て行く。1秒の勝負だから、軍隊は。内務班長の米田軍曹にはかわいがられた。金城が3人いて、私は一番小さい金城だから「コキン」と呼ばれていた。午前中は看護教育で午後はすぐ試験。だから一生懸命聞かないと大変。頭にたたき込んで、もう死に物狂いよね。
《3月23日、米軍は沖縄上陸に備えて大規模な空襲を行います。戦況の激化に伴って負傷兵も増え、看護要員が不足していました。学徒たちの看護教育は打ち切られ、24日には八重瀬岳の野戦病院壕へ緊急配置されました》
注射の打ち方もまだ習っていなかった。壕の中でただ1回だけ教わって出発した。内科と外科があって、私たち(小柄な)スモール組は内科だった。配置のころは米軍がまだ上陸していないから負傷兵はいなかった。上陸したら内科どころじゃない。(上陸後は)私たちも緊張していた。血を見るのもあんな無残な格好を見るのも初めて。おなかから腸が飛び出た人もいるし。中に入りきれず通路にも寝かされていた。
※続きは12月12日付紙面をご覧ください。