<未来に伝える沖縄戦>壕出たところを銃撃 金城幸子さん(88)〈下〉


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過酷な避難体験を語る金城幸子さん=4日、那覇市の古蔵中学校

 《日本軍が南部撤退を始めると米軍の攻撃は本島南部へ迫りました。1945年6月4日、金城幸子さん(88)ら白梅学徒隊も解散を言い渡されました》

 歩いて新垣という部落に行った。瓦ぶきの家の裏に人工壕があり、兵隊も私たちもひしめき合っていた。怖くて「今晩出よう」と声を掛けたけど、みんな行かないと言うので禰覇幸子さんと2人で出た。手をつないで走ったら飛行機から撃たれた。「死んでもいい。もうこれ以上走れない」と私が悲鳴を上げると、禰覇さんに「今死んだら犬死にでしょう!」と怒られた。
 茂みに隠れて日が暮れ、国吉の辺りを歩いていた。たこつぼ壕で一晩過ごして翌日の昼、木の生い茂った小高い山で飛行機が爆弾を落とすのを見ていた。「集中攻撃しているからあそこに部隊がいるかもしれない」と話して夜に下りた。そうしたら親戚を引き連れた父が向こうから来た。でも私は軍との方がいいから一緒には行かなかった。「お父さん、茂みに隠れておって。部隊を捜して来るから」と言って。大和なでしこだから、軍と一緒に勝つまで戦うという気持ちだった。

 《金城さんが向かった場所にはかつて所属した部隊がいました》

 米田軍曹に父と会ったと言ったら「じゃあ明日あいさつしようね」と言われた。翌日夕方、父と合流して軍曹が「お預かりした娘さんをお返しします」と言うから「それなら来るんじゃなかった」と思った。父はどんどん前に行くが付いていけない。後ろ髪を引かれて。あのときは本当に足が前に出なかったよ。
 (住んでいた所の)区長さん夫婦が父に付き添っていて、壕に4人で入った。真昼なのにいやに騒がしい。「出てみましょうね」と壕から出た区長さんが「アメリカーがいる!」と叫んだ。私たちも出ると、米兵が銃を構えている。もう言葉も出ない。区長さんは胸を撃たれて道に倒れ、奥さんがすがって泣いているけど面倒を見きれない。(私も)壕から100メートルぐらいのところで後ろから撃たれた。東風平(分院)にいるとき兵隊さんが「うちの家族に会ったらよろしく」と腕時計をくれた。この時計を非常袋のポケットに入れてあった。非常袋は半分までえぐられていたが弾は体までは届いていなかった。時計が守ってくれた。

※続きは12月13日付紙面をご覧ください。