北中城村喜舎場に住む安里要江さん(95)は沖縄戦当時、2児の母親でした。米軍による艦砲射撃が始まった3月下旬から、慰霊の日の6月23日に糸満市伊敷の轟の壕で米軍に保護されるまでの約3カ月間、砲弾が飛び交い、道ばたに死体が横たわる中を逃げ惑いました。道中で実母や娘を亡くし、終戦後にも収容所で夫と息子を失いました。北中城高校2年の大底南々子さん(16)と杉浦七神さん(17)が安里さんの自宅で話を聞きました。
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私は1938年に屋宜宣佑さんと結婚した後、故郷の中城村(現北中城村)喜舎場から宣佑さんの家族が経営する「屋宜商会」がある那覇に移り住みました。屋宜商会は那覇市泉崎にあり、砂糖委託業や肥料販売などを手掛ける、いわば「財閥」のような大きな会社でした。宣佑さんは屋宜商会の次男でした。結婚して3年後には長男の宣秀を産みました。その1週間後に太平洋戦争が勃発しました。だけど、沖縄に戦争が来るとは思っていませんでした。
《太平洋戦争で日本が劣勢となり、沖縄が戦場になる可能性が高まったことから沖縄から本土への疎開が始まりました。戦争が沖縄に来ると思っていなかった安里さんにも戦争を身近に感じざるを得ない出来事が起きました》
屋宜家の長男の宣〓さんの息子の宣見君が疎開することになりました。小学4年生でしたが、屋宜家の男の子1人だけでも生き残るために船に乗せました。乗ったのは学童疎開船の対馬丸でした。対馬丸は敵から魚雷を受けて撃沈されました。宣見君は帰らぬ人となりました。撃沈されたことは公表されませんでした。宣見君の死が、屋宜家の疎開をためらわせました。その結果、沖縄の地上戦を体験することになりました。屋宜家の戦争は対馬丸の撃沈から始まったと言えます。
《安里さんが長女の和子ちゃんを産んですぐに那覇で大空襲がありました。10・10空襲です。実家の喜舎場に帰省していた安里さんも、屋宜家も無事でした。屋宜商会も焼け残っていましたが、その後も空襲警報が鳴る日は続き、45年3月下旬からは艦砲射撃も始まりました》
※注:杉浦七神さんの「神」は示ヘン
※注:〓は日ヘンに「章」