【読谷】沖縄戦で米軍沖縄本島上陸直後の1945年4月2日、住民83人が「集団自決」(強制集団死)をした読谷村波平のチビチリガマで4日、慰霊祭(遺族会主催)が行われた。遺族や関係者ら約20人が集まり、70年前に起きた惨劇で犠牲となった肉親の冥福を祈り、平和を願った。
沖縄戦終結から70年たったいま、住民が体験した「戦争」の記憶の継承に危機感が募る一方で、「戦争のできる国」の流れが進む中、体験者や遺族らは「不戦」への思いを新たにしている。
チビチリガマでは、米軍上陸に際して住民が避難していた。米兵が投降を呼び掛ける中、殺されると思い込んだ男がガマ内の布団などに火を付け、避難していた住民140人のうち83人が「集団死」した。そのほとんどが煙による窒息死だったが、注射や刃物で命を絶った人もいた。
背景には、米兵に捕らえられれば残虐行為をされるとの考えが住民らの間に広まっていた状況がある。一方、チビチリガマにほど近いシムクガマでは、ハワイから帰国した英語を話せる住民がいたため、避難民ら約千人が投降して全員の命が助かっている。
チビチリガマでの「集団自決」が起きた4月2日の時点で、大本営はすでに沖縄を見捨て「本土」襲来を想定していた。
本島上陸に先立つ慶良間諸島での「集団自決」も合わせて、ガマでの犠牲は、米軍の侵攻に伴って住民を巻き込んだ沖縄戦の象徴的な出来事であり、「軍隊は住民を守らない」中で、南部戦線に拡大していく悲劇の幕開けの一つとも位置付けられる。
慰霊祭で、遺族会の与那覇徳雄会長(60)は「戦後70年を迎え、当時を知る人が少なくなっている」と危惧を示しつつも、「チビチリガマから平和を発信するため、いろいろな形で子や孫に歴史を継承していきたい」と語った。