<金口木舌>危うさを地と空の目で


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 長崎原爆の日の9日、沖縄国際大学名誉教授の安仁屋政昭さんが訪ねてきた。「もう覚えている人も少なくなっている」。長崎への原爆投下後にB29が読谷村に着陸した史実である

▼B29は1945年8月9日午前2時49分にテニアン島を発進した。投下の第一目標は福岡県小倉市(現北九州市小倉)だったが、雲に覆われ、目視攻撃ができなかった。同11時2分、次の目標だった長崎へ原爆を投下した
▼読谷に到着したのは午後1時ごろだ。飛来理由について村史編集室の豊田純志さんは「原爆投下後の経由地は当初硫黄島だったが、燃料が減り、進路を変更した」と説明する
▼米軍は4月1日の読谷上陸後、補助飛行場に加え、もう一つの飛行場ボーローポイントを急造した。宇座、高志保など4集落にまたがった。沖縄は約4カ月で長崎の原爆投下を含む日本攻略の陣地に利用された
▼B29が着陸に要する滑走路は約2300メートルとされるが、補助飛行場は2100メートル。ボーローは2590メートルの滑走路があった。B29がどちらの飛行場へ着陸したのかは、今も判然としない
▼戦後71年、沖縄は米軍基地に翻弄(ほんろう)される戦後が続く。安仁屋さんは「地を這(は)う虫の目と空から俯瞰(ふかん)する鳥の目が必要」と指摘する。基地を取り巻く情勢に目を配り、土地に刻まれた史実を振り返る。時代の危うさがそこから浮かび上がる。