県内の高校で運動部主将を務める男子生徒が自ら命を絶った。遺族によると、生徒は部活動顧問の教諭から、主将や部活を「やめろ」などと日常的に叱責を受け悩んでいた。
学校からの聴取に顧問はその理由について「勝たせたかった、頑張ってほしかったとの意味」と説明したという。
県教育委員会は15日に第三者による調査チームを設置した。生徒を追い込んだ状況を徹底的に調査し、具体的再発防止策を県内全校で実施すべきだ。生徒らの心のSOSを察知し迅速に対応する環境づくりも急務である。
教員の不適切な「指導」に追い詰められ、生徒が自殺する事案が全国で相次いでおり、「指導死」と呼ばれている。教育評論家の武田さち子氏の調査によると、「指導死」は平成以降94件発生し、88%に当たる83件が殴る蹴るなどの体罰を伴わない事案だ。
文部科学省の「運動部活動での指導のガイドライン」では「体罰等の許されない指導」に、人格否定などの発言も含まれる。主将や部活を「やめろ」などという発言は、もはや指導ではない。言葉の暴力だ。指導を放棄して生徒を意のままに統制しようとする支配行為と言える。
本来、命や人権の大切さを学ぶ場である学校で、生徒がなぜ自殺を選択してしまうのか。それは教員が強い力を持つ学校だからこそ起きるとみるべきだ。強い立場を利用して生徒を支配する構図がある。体罰やわいせつ行為が後を絶たないのも、背景にはその構図があるからだ。
それらは一部の教員の不心得が招いた結果としてではなく、教員が権力を悪用することを許してしまう学校組織の問題として捉えるべきだ。
中でも部活動はそれが顕著になりやすい。生徒たちの人格形成や生きる力の育成よりも勝つことが目的化すると、言葉の暴力や体罰が手段として使われがちになる。そんな勝利至上主義が、本来あるべき指導を逸脱してしまう要因になってはいないか。
指導を逸脱した暴力が相次ぐ背景には、学校の隠ぺい体質や、生徒や保護者を含めた黙認がある。全国では、「あってはならないこと」を「なかったこと」にしたい校長の姿勢や、加害者が否定すると被害者が「うそつき」と責められる2次被害の事例がある。評価の高い教員の場合、実績や情熱を理由に保護者たちが加害者を守る傾向もある。周囲の生徒が教員による体罰を見ていながら黙認してしまうケースも少なくない。
今回の男子生徒の死が「指導死」に当たるかどうか調査結果が待たれる。この際、教員の権力悪用の事例を網羅的に明示し、当てはまることが教育現場で起きていないか、徹底的に洗い出してみてはどうか。言葉の暴力や体罰を排除するには、まずは全ての関係者が、それらはもはや指導ではないことを意識することが肝要だ。