金とドルの交換停止を表明した「ニクソン・ショック」を受け、沖縄住民の損失を補(ほ)塡(てん)する「通貨確認」から9日で50年を迎える。
米国は自ら築いた戦後の国際通貨システム「ブレトンウッズ体制」を自国利益のために変更した。日本は沖縄に対し無策のまま変動相場制に移行した。当時ドル経済圏の沖縄は、物価が高騰して大混乱に陥った。
通貨確認に至る過程について屋良朝苗主席は「イバラの道」と表現した。大国に翻弄(ほんろう)され、資産を差損されながら、生き抜いた道のりだ。その歴史を再確認し、自己決定権を行使できる沖縄を目指したい。
第2次世界大戦後、米国は金と自国通貨ドルとの交換を約束すると同時に、ドルと他通貨の相場を固定した。しかし、次第に貿易黒字が縮小しベトナム戦争の戦費がかさむと、国際収支の不均衡を調整できなくなった。そのためドルと金の交換停止と、輸入を制限してドルの海外流出を減らすため輸入課徴金を導入した。「ニクソン・ショック」である。
固定相場制の時代は終わりを告げ、円相場も変動を繰り返しながらドルに対して高くなっていった。ドル経済圏の沖縄は、生活物資の大部分を日本から輸入していた。円高になるとドルの価値が切り下がるため、物価は猛烈に値上がりした。
沖縄には自力で危機を乗り切る経済的、外交上の手立てはない。琉球政府は日米両政府に対し日本復帰前に1ドル=360円で通貨交換し、沖縄からの対米輸出品に課徴金を課さないなどの緊急要請事項を決めた。
しかし、沖縄を統治する米国は救済措置を講じなかった。日本政府も無策で復帰前の通貨交換に踏み切らなかった。日本の通貨当局の管理下にない沖縄に投機目的のドルが大量に持ち込まれることを恐れたからだ。
そこで屋良主席は宮里松正副主席に命じて、沖縄担当大臣の山中貞則総務長官と極秘作戦を練る。その結果、次善の策として通貨確認を実施することにした。日本に復帰する前のある日(Xデー)に、住民が保有するドルを確認し、確認済みのドルに限って復帰時点のドルの実勢レートと360円の差額を給付金として支払う方法だ。実施直前まで大蔵省の抵抗に遭いながら10月9日に実現した。
通貨確認は実現したが、変動相場制移行による県民の損失額は、現金と預貯金を合わせ7億8401万ドル(431億2093万円)に及んだ(「戦後沖縄経済史」)。
米軍基地問題に代表されるように、日米の政治的都合によって沖縄が翻弄される構図は今でも続いている。屋良主席は復帰式典で「沖縄がその歴史上、常に手段として利用されてきたことを排除」すると明言した。その言葉の重みは、通貨確認の過程に表れている。忘れてはならない。