<社説>辺野古抗告控訴審判決 妥当性判断せず役割放棄


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 国が国民になりすまして県の判断を覆す手法は、地方自治を脅かす。司法が果たすべき役割を放棄したと言わざるを得ない。

 名護市辺野古の新基地建設を巡り、県の埋め立て承認撤回を取り消した国土交通相の裁決の妥当性が争われた訴訟の控訴審判決で、福岡高裁那覇支部は、県に原告の資格はないとして訴えを棄却した一審那覇地裁判決を支持し、裁決取り消しを求めた県の控訴を棄却した。
 国交相の裁決の妥当性に対する判断も示さず、一審同様、県の訴えを入り口で退けた。
 事の発端は、国による「不都合な事実」の隠蔽(いんぺい)にある。埋め立て予定区域の大浦湾側に「マヨネーズ」のような軟弱地盤が存在することを早期に把握しながら公にしなかった。県は埋め立て承認後に軟弱地盤の存在が発覚したため、承認を撤回したのである。県民を愚弄した国に対する当然の措置である。
 これに対し、沖縄防衛局は本来は国民の権利救済のための行政不服審査制度を使って国交相に審査請求を申し立てた。一審判決は、実質的な審理に入らないまま、県の訴えを退けた。よりどころにしたのは、兵庫県宝塚市のパチンコ条例をめぐる2002年の最高裁判例だ。自治体が条例や規則に従わせるために訴訟は起こせないとしている。しかしこの判例は多くの行政法学者から批判され、見直しを求められている。一審は、この判例を踏襲したのである。
 県は行政事件訴訟法に基づき提訴し、自治権が侵害されたなどと主張した。高裁支部は、一審が踏襲した批判の多い「宝塚裁判」の判例は使わず、さまざまな法令を照合。沖縄県知事は公権力を行使する行政庁、国の機関である沖縄防衛局は私人の関係にあるとして県に原告の資格を認めなかった。理解に苦しむ。
 なぜ司法はかたくなに国策の判断を避けるのか。これは沖縄だけの問題ではない。全国の自治体にとっても、国策に従わない行為は、司法が門戸を閉ざすことにつながらないか危惧する。
 一方、司法が矜持(きょうじ)を見せた判決もある。ふるさと納税の新制度から大阪府泉佐野市を除外した総務省の決定を巡る裁判で、最高裁は昨年、国勝訴とした大阪高裁判決を破棄し、総務省の決定を違法として取り消した。国の方針に従わない自治体に対し、新たな法制度を作り、施行前にさかのぼって責を負わせることが許されるのかが焦点になった。最高裁は国の「後出しじゃんけん」を認めなかった。
 しかし、この矜持は今回の判決で示されなかった。県の承認撤回は県民の利益を守るため、自治体としての当然の行為である。ところが司法は、県の撤回の妥当性や国交相裁決の適法性の判断を避け続けている。県の主張と向き合わないのなら、何のための司法なのか。存在意義そのものが問われているといえよう。