<社説>久辺3区アンケート 国策が住民追い込んだ


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 20年も国策に翻弄(ほんろう)された住民の重いため息が聞こえるようだ。

 政府が米軍普天間飛行場の移設先とする名護市の新基地建設地に隣接した久辺3区の住民に、本紙は戸別訪問によるアンケートを行った。辺野古移設計画については「条件付き容認」「推進」を合わせた賛成が47%で、反対の42%を上回った。
 この結果をもって「地元住民は賛成派が多い」とみるのは早計に過ぎる。
 普天間の移設先について聞くと、県外、国外や即時閉鎖など、辺野古以外の選択肢を挙げた住民が62%と最多で、辺野古と答えた住民は24%だった。
 6割以上の人たちが辺野古以外の移設先を望みながらも、政府が移設作業を強行する中、諦めや無力感にさいなまれて、容認に転じたことがうかがえる。
 「容認」とする人たちも「決まっているので移設せざるを得ない」「反対だがどうにもならないことを知っている。選挙も同じことの繰り返し」と答えた。
 1950年代後半にキャンプ・シュワブを造る際、米軍は辺野古区に、反対すれば集落を強制接収し、補償を拒否すると通告した。区はやむを得ず接収を容認したが、生活の糧だった水田やイモ畑がつぶされ、美しい辺野古の海にひざの高さまでヘドロがたまった。海と共に暮らしてきた人々は嘆き悲しんだと古老は証言する。
 辺野古区は運動会など地域行事にシュワブの兵士を招く。それは単純な友好ではない。ベトナム戦争のころ精神的にすさんだ兵士による区民の殺傷事件が起きた。基地に隣接するが故の事件事故を防ぐ知恵として、米軍と合意事項をつくり、親善関係を築いてきた。
 1996年に普天間の移設先に浮上した後、政府は防衛予算や再編交付金を使った箱物、久辺3区だけの交付金など「アメ」を駆使した。移設計画の賛否を巡って、地域のみならず親兄弟さえも分断した。移設の話はできない、とぴしゃりとドアを閉めた住民の多さに、これ以上翻弄されたくないという思いがにじむ。
 3千人にも満たない集落に基地を押し付けるのは、小さな地域は黙って国策に従え、と強いるものだ。賛成派が多いのではない。容認または沈黙せざるを得ないほど住民を追い込んだ責任を政府は自覚すべきだ。