<社説>宮崎空港不発弾爆発 調査と撤去は国の責任だ


<社説>宮崎空港不発弾爆発 調査と撤去は国の責任だ
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 宮崎空港の誘導路で2日、不発弾が爆発した。直前に乗客を乗せた旅客機が現場を通過しており、一歩間違えば大事故につながる恐れがあった。那覇空港でも3日、米軍の不発弾とみられる物が見つかり、自衛隊が処理した。

 不発弾は戦後79年を経ても国民の安全を脅かし続けている。政府は戦後処理の一環として責任をもって全国の不発弾調査と撤去を進めなければならない。

 宮崎空港は1943年に日本海軍の飛行場として建設され、54年から民間空港として開業した。過去には2009年と11年は配管工事中、21年には耐震工事で路面を張り替えた際に不発弾が見つかっている。

 国土交通省は宮崎など一部空港で不発弾が残っていないか再点検する方針だ。戦時中、日本軍飛行場として空襲を受け、これまでに不発弾が見つかった空港が対象となる。利用者や乗務員の安全確保のため調査を尽くしてほしい。

 太平洋戦争中、米軍の空襲は飛行場や港湾などの軍事施設を攻撃対象とした。沖縄では那覇市の約90%を焼失した1944年10月の「10・10空襲」でも飛行場や港が攻撃対象となり、それに続く沖縄戦で大量の爆弾や砲弾が投下された。

 那覇空港の前身である日本海軍の小禄飛行場も攻撃対象になり、不発弾が相次いで見つかっている。2020年4月には那覇空港の誘導路建設工事に伴う磁気探査で、米国製250キロ爆弾3発が相次いで発見された。今回の宮崎空港の爆発事故を見ても、地中に残る不発弾の調査と撤去が十分になされたとは言えない。沖縄では工事現場などから毎日のように不発弾が発見され、自衛隊による処理作業が実施されている。

 9月29日には、那覇市首里山川町で発見された不発弾の処理のため、約1400人が一時避難を余儀なくされた。これまでの無数の処理回数を考えると、住民生活への負担や経済活動への影響は計り知れない。

 県内では人命を奪う不発弾の爆発事故が起きた。1974年に那覇市小禄の聖マタイ幼稚園そばの工事現場で4人が死亡、34人が負傷した。87年には那覇市長田で、89年には伊江村東江上でそれぞれ1人が死亡している。2009年には糸満市内の歩道で水道管の掘削工事中、接触した不発弾が爆発し、重機を運転していた男性が顔面に重傷を負った。

 沖縄には約1878トン余が残っていると推計され、処理完了まで100年かかるとも言われる。全国各地にも大量の不発弾が残されているのではないか。

 国策で戦争が進められた以上、その処理は国の責任で果たされなければならない。不発弾が地中に残されている限り、日本の戦後処理は終わらないのである。