<社説>翁長知事就任 自己決定権発揮の時 民意背景に問題解決を


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 翁長雄志氏は10日、1972年の施政権返還後7代目の県知事に就任、新しい県政が始動する。

 翁長氏の圧勝は、4年ごとにやってくる選挙の結果という以上に重い意味を持つ。
 68年に行われた初の主席公選以来、県民が政治に託し続けた自己決定権回復の訴えの到達点と言えるからだ。
 沖縄の将来は自分たちの手で決める。翁長新県政は「屋良建議書」や「建白書」に貫かれた精神の実現という、歴史的な使命を果たしてほしい。

「代行機関」を脱して

 半世紀前に来沖したマッカーサー駐日大使は、歓迎夕食会の席順を見てショックを受けた。米軍首脳が上席で沖縄代表の当間重剛行政主席は末席に座らされていたからだ。当間氏を見送る者もない。高等弁務官が任命する沖縄代表を、米軍はその程度にしか認識していなかった。
 当間氏は那覇市長時代に軍用地の新規接収と借地料の一括払い受け入れを表明して島ぐるみの土地闘争に水を差した。親米姿勢を評価され、初代高等弁務官となるムーアが主席に任命した。
 ムーアは琉球政府を米国の「代行機関」と断言、当間氏は57年の施政方針演説で「代行機関」の地位を受け入れ、米国への協力を表明した。「ネズミ(沖縄)はネコ(米国)の許す範囲でしか遊べない」(ワトキンス少佐)。「暗黒の時代」とも言われる米国統治の実態だ。
 「主権在米」とも言われた当時、選挙によって自らの代表を決めたいという要求が、日増しに高まっていったのは当然のことだろう。68年に主席公選の実現を勝ち取り、革新統一候補の屋良朝苗氏が初当選した。
 屋良氏は沖縄問題を「コンクリートのような厚く巨大な障害物」と表現した。どんなに鋭利な刃物でも全県民的な支持を得ないで障害物に突進すれば、いたずらに刃こぼれするだけだと考えた。そこで全県民一致して日米に立ち向かう「鈍角の闘い」を開始した。
 満ち引きする潮のように粘り強く政府交渉を繰り返し、課題を少しずつ解決に向かわせる政治手法だ。今でも参考になる。
 しかし、日米両政府は沖縄の民意に寄り添わず、密約を交わして返還後もほとんどの在沖米軍基地が残った。
 68年以来続く保革対立の構図は、時に沖縄が一枚岩になれないジレンマを抱えていた。ジレンマを乗り越えたのが今回翁長氏を当選させた「オール沖縄」の枠組みだ。

二つのパワー

 安倍政権は、知事選や名護市長選で示された民意を押しつぶして、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設を強行しようとしている。これがまかり通れば、かつての「暗黒の時代」と同じだ。
 一方、翁長氏の当選は米国内世論に変化をもたらしている。米クリントン政権で普天間飛行場返還の日米合意を主導したジョセフ・ナイ元国防次官補(現ハーバード大教授)は朝日新聞のインタビューに対し、辺野古移設計画に関し「沖縄の人々の支持が得られないなら、われわれはおそらく再検討しなければならないだろう」と述べた。中国の弾道ミサイル能力向上に伴い、米軍基地が集中する沖縄は「脆弱(ぜいじゃく)」だとも指摘した。重要な発言だ。
 日米は1960年代から米軍基地の脆弱性を認識していた。外交文書は「攻撃を受けた際、狭い島に配備された米軍は装備とともに無力化する危険がある」と指摘している。米国防総省にも同様の意見があった。今も昔も在沖米軍は抑止力ではなく、県民にとって危険な存在なのだ。
 新知事の翁長氏は圧倒的な民意を背景にしつつ、国内外の世論も味方にする工夫が必要だろう。沖縄の直接パワーと国内外の間接パワーを組み合わせて、沖縄問題の解決に全力を尽くしてほしい。