<社説>自衛隊海外派遣 本質に目を凝らしたい


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 軍事・安全保障に関しては、枝葉末節が焦点化し、本質の論議がなおざりにされることがよくある。あえて枝葉を持ち出すのは本質から国民の目をそらすことが動機ではないか。この件もそんな疑念を禁じ得ない。

 安全保障法制をめぐり自民、公明両党が自衛隊の海外派遣の要件で合意した。派遣には事前の国会承認が必要で、例外を認めるか否かが焦点だったが、例外を認めないという。
 自民が「譲歩」して公明の主張を認めた形だ。だがこの「譲歩」は、危険性が薄まったかのような「演出」にすぎないのではないか。ことの本質に目を凝らしたい。
 政府与党が制定しようとしている安全保障法制の本質はそんなところにはない。ペルシャ湾の原油の輸送まで戦争参加の理由にするかのような、自衛隊出動対象の歯止めなき拡大にある。
 これまでは極東に限定されていた他国軍への支援を地球の反対側にも広げる「地理的拡大」、インドや豪州なども対象とする「支援相手の拡大」、さらに交戦中の他国軍への武器弾薬の提供など「支援内容の拡大」、この三つの拡大から目をそらしてはいけない。
 例えば武器弾薬や燃料を戦争中の他国軍に提供するのは兵站(へいたん)を受け持つことにほかならない。他国軍の戦争相手は間違いなく日本も参戦したとみなす。相手が自衛隊に銃弾を撃ってくれば自動的に参戦だ。その機会を地球の反対側にまで求めるのである。
 政府与党は「国の存立を全うし国民を守るための切れ目(シーム)のない対応」と「シームレス」を強調するが、これではまさに「戦争までシームレス」である。
 自衛隊派遣に国会の事前承認を義務化したところで、日本が戦争に巻き込まれる危険性が飛躍的に高まることに何ら変わりはない。
 戦後日本は非戦国家を選択した。占領軍の押し付けという人もいるが、非戦は国民の圧倒的大多数の願いだった。その結果、他国への攻撃能力を持たず、戦後70年、外国に対して1発の銃弾も撃たず、1人も殺さなかった。その非戦こそ最高のブランドではないか。今回の法制はそれをかなぐり捨てるのである。
 問われるべきは国家像だ。自由と人権、民主主義を重視し、他者への寛容を示し、軍事力に解決を求めない国家像をこそ発信すべきではないか。