<社説>安保法制国会提出 どこに歯止めがあるか 危険な法案は廃案にせよ


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 憲法の規定を下位にある法律で改変する。各種世論調査でおしなべて反対が賛成を上回るのに、委細構わず突き進む。およそ立憲主義、法治国家、民主主義と程遠い光景がこの国で進行している。

 政府が新たな安全保障法制を閣議決定し、国会に提出した。提出が復帰記念日の5月15日なのが象徴的だ。われわれが帰ろうと切望した「祖国」はこんな国だったのか。ある種の感慨を禁じ得ない。
 会見で安倍晋三首相は、戦争に巻き込まれるとの批判は「的外れ」だと繰り返した。だが的外れどころか正鵠(せいこく)を射た批判だ。危険な法案を成立させてはならない。

「平和」の欺瞞

 閣議決定したのは「平和安全法制整備法案」と「国際平和支援法案」だ。いずれも「平和」の文字を入れたが、国民向けの姑息(こそく)な印象操作だ。首相が「軍隊」と呼ぶ自衛隊を地球の反対側にも出し、戦争当時国に武器も燃料も補給できるようにするのだ。これを「平和」と呼ぶのは欺瞞(ぎまん)だ。
 そもそも自衛隊法など10本の法改正案を束ねて一つの「平和安全法制整備法案」としたのがおかしい。国会審議を早々と終える狙いがあるのは明らかだ。「相互に密接に関連するから」と政府は説明するが、なぜ一括でなければならないか、個別ではなぜ駄目なのか、まるで説明になっていない。
 政府与党は一括で80時間程度の審議を想定しているという。だが10本の法案はそれぞれ「専守防衛」の国是に風穴を開けるほどの内容だ。従来ならそれぞれ優に100時間は超える。今回は、単純計算で言えばそれぞれをたった8時間程度で通過させようという考えなのである。
 安倍首相は成立どころか国会提出より前に米国議会で演説し、今夏での法案成立を約束してきた。これほど極端な国会軽視は見たことがない。これで成立を許すなら国会は存在意義すら疑われよう。
 首相は「米国の戦争に巻き込まれることは絶対にない」と強調した。だが米国は、財政難による軍事費削減の要請から、米国の戦争の肩代わりを日本に求めている。オバマ大統領が日米首脳会談で「日本は地球規模のパートナー」と述べたのはその肩代わりを意味する。
 ではその米国の要請を断れるのか。従来は「憲法の制約でできない」と言えたが、その制約がなくなるのだ。日本は戦後70年、ただの一度も米国の戦争に反対したためしがない。ベトナム戦争しかり、イラク戦争しかりである。その日本が突然反対できるようになるなど、信じられるわけがない。

ご都合主義的解釈

 安倍首相が辺野古新基地建設に遮二無二突き進むのは、尖閣をめぐる日中衝突に米国を引き込むため、質草として沖縄を差し出すという意味があるように見える。日中衝突には巻き込むつもりなのに、米国の戦争には巻き込まれないというのは都合が良すぎないか。ご都合主義と呼ぶほかない。
 首相は武力行使の新3要件を持ち出して「厳格な歯止め」を強調した。だが機雷でホルムズ海峡をタンカーが通れないことも「日本の存立が脅かされる明白な危険」に含むという。中東でもイラン以外の国から直接原油を運べ、ロシアや北米からも輸入できるのに、である。これも「存立の危機」なら政府解釈はまさに万能だ。どこに「歯止め」があるというのか。
 首相は自衛隊機のスクランブル発進の増加や北朝鮮のミサイルを持ち出し、不安をあおった。だから集団的自衛権行使が必要だという空気を醸成しようとするのだが、スクランブルもミサイルも全て個別的自衛権で対処する事案である。非論理的ではないか。
 米国が中東で戦争をした結果、「イスラム国」が生まれたように、軍事力の行使はかえって世界の危険を助長する。非軍事的貢献こそが国際的な安全保障につながるという事実を、むしろ日本は積極的に発信すべきなのである。