<社説>ハワイ姉妹締結30年 この絆、いつの世までも


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 戦後、ハワイの県系人の必死の助力がなければ、沖縄の餓死者は相当な数に上ったはずだ。彼らの古里を思う気持ちが弱ければ、間違いなく今の沖縄はない。

 そのハワイで本日、翁長雄志知事も出席し、沖縄県とハワイ州との姉妹都市締結30年の記念式典が開かれる。ハワイ沖縄連合会(HUOA)は「幾世までぃん(いつの世までも)」の標語を掲げる。むしろこちらがお願いしたい。この絆、ぜひいつの世までも続けさせてほしい。
 1900年、沖縄初の移民がホノルルに入港した。白人はもとより日系移民からも受ける差別と闘いながら、1日12時間にも及ぶ過酷な重労働で手にしたお金を、こつこつと古里へ送金した。戦前、ハワイを含む計10カ所の海外移民先からの送金は、県の歳入総額の約4割に匹敵するほどだった。当時の移民がいかに沖縄経済を支えたかが分かる。
 太平洋戦争はハワイの県系人にも過酷な運命を強いた。敵性国人として迫害され、収容所に送られたり徴兵されて最前線に送られたりした。そんな2世の中には沖縄戦で投降を呼び掛け、多くの住民の命を救った人もいる。
 そして戦後。沖縄の窮状を聞くや県系人はすぐさま救済運動に立ち上がる。自分たちも乏しい生活の中から、食料や衣類、薬品、果ては豚やヤギまでも沖縄へ送り届けた。このとき海を渡った豚550頭は4年で10万頭になった。これが戦後沖縄の畜産の基礎となったのはよく知られている。
 教育面の足跡も大きい。琉球大学設立や米国への留学生派遣の運動もハワイから始まった。ウチナーンチュが生き延びたのも、沖縄の産業も教育も、ハワイのおかげなのだ。その恩を深く胸に刻みたい。
 今、県系人の若者は古里の文化を引き継ぐのに熱心だ。しまくとぅばを習い、三線や琉舞、空手に汗を流す。その姿に胸を打たれる。
 ハワイ王国は米国の武力で転覆させられた。先住民のハワイ語は抑圧され、絶滅寸前にまで至ったが、ハワイ語復興運動が少人数から始まり、今やハワイ語で各教科を教えるまでに至った。ハワイ大学と県立芸大、琉球大、名桜大は言語などの研究で提携することになっている。その危機克服のノウハウにも学びたい。
 米軍基地問題の解決にも今後、ハワイの助力が必要になろう。式典を機に、さらに連携を深めたい。