<南風>親の愛


社会
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 親のノートを見つけた。こっそり見てみるとそこには住所と名前がビッシリ書かれていた。せめてこれだけは書けるようにと練習をしていたんだろう。

 私は奈良県のとても山深い小さな村で育った。両親は竹製品を作る工場の竹細工職人で兼業農家でもあった。家で食べる野菜はほぼ自給自足。親は仕事が終わってからも、工場が休みの日も畑仕事をしていた。

 農家に休みはない。とても働き者の親であったが、私は親に対して恥ずかしいという思いをずっと持っていた。その理由は親が字の読み書きができなかったからだ。どちらとも裕福ではない家庭だったようで、小さい頃からきょうだいの世話など家の手伝いや家計を支えるために若くして働きに出ており、学校教育を受けることができなかった。母の妹が「モト子ちゃんのお母さんは私たちのお母さんでもある」と言っていた。母は出稼ぎ先から、妹たちにクリスマスやお正月に必ずプレゼントや仕送りもしていたそうだ。

 私のためにもできるだけのことをしてくれた。行きたい専門学校へも行かせてくれ、勉強だけに集中してほしいとバイトをしなくてもいいように毎月生活費の仕送りもしてくれていた。学費も高い専門学校だったので、金銭的にとても大変だっただろうと思う。今の私に同じことができるかといえばできない。自分自身と飼い猫との生活で精いっぱいだ。

 私を不自由なく育ててくれた親が持つ温かさや愛や知恵は読み書きの能力よりもずっと価値あるものだ。人の価値や尊さは教育の程度だけでは測れない。素直になれず面と向かっては言えないが産み育ててくれてありがとう。心より感謝している。離れて暮らしていても、いつもあなたたちを思う。あなたたちのような生き方ではないが、ここ沖縄で一生懸命に生きたい。
(畑井モト子、琉球わんにゃんゆいまーる代表理事)